(2014年に書いたものの再アップ)

ラタトゥイユ ratatouille と言えば普通は「ニース風ラタトゥイユ」のことを指す。僕がこの料理を知ったのは大学に入ったばかりの頃だ。

ちょうどフランス語を学びはじめていたので、辞書で ratatouille を引いてみると、「1. 野菜の煮込み 2. まずい煮込み、粗末な料理」のようなことが書いてあり、この「まずい煮込み」という意味が気になったのを妙によく憶えている。ヨーロッパ人は肉食中心だから野菜が嫌いで、ラタトゥイユを美味しくないと感じるのか…?

いま考えると、この疑問はラタトゥイユという語が指し示すものを、南フランスに特徴的な野菜の煮込みであるニース風ラタトゥイユに限定して発想しているもので、「まずい煮込み」という意味内容の対象を最初からニース風ラタトゥイユと決めてかかっている点で論理的とは言えない。初学者らしい無知ゆえの疑問というところか。

ポワヴロン(パプリカ)、茄子、ズッキーニ、トマト、玉ねぎをオリーヴ油で炒め煮にするニース風ラタトゥイユがいつごろ成立した料理なのかはわからないが(地方料理、家庭料理とはそういうものだ)、フランス全土に知られるようになったのはおそらく1950年代以降。文献ベースだとどんなに遡っても1930年代といったところだ。ところが ratatouille という単語の記録は1778年まで遡ることが出来るという。

語源についてはいくつか説があって、tatouiller (しごく、折檻する)の派生語、ratouiller (かき混ぜる、汚なくする)のような口語表現からの派生語だというのと、rate (ねずみ)を語源とするプロヴァンス方言 ratatoulha (残飯、ごった煮、温めなおしの食事、不味い煮込み、ねずみの餌)がもとになっているという説が代表的だ。

いずれにしても、ニース風ラタトゥイユが知られるようになる以前(ひょっとしたら料理として成立する以前)、18世紀、19世紀にラタトゥイユという語があって、それが食べ物を指す場合には決していい意味のものではなかった。そして驚くことに、その「不味い煮込み」である19世紀のラタトゥイユのレシピが1850年に刊行された「法務省関連文書」に収められているという。刑務所で囚人に提供されるものらしい。

ラタトゥイユと呼ばれるポタージュ…毎日午後の食事および看護室で配給する。 100人分の材料 じゃがいも…75kg バター…500g 玉ねぎ…1kg 塩…1kg こしょう…30g ヴィネガー…1kg

レシピに水の量は書かれていないが、おそらく50Lくらいと推測されるようだ。

また、刑務所ではなく軍隊の下級兵士の食事は俗語で rata と呼ばれていたという説もある。「ねずみの餌みたいな不味い食事(煮込み)」といったところだろうか。

さて、ニース風ラタトゥイユは19世紀の料理書はおろか、1920年出版の『プロヴァンス料理教本』にも出てこない。僕が知っているなかでもっとも古いレシピは1929年、プロスペル・モンタニェ、プロスペル・サル共著『料理大全』のものだ。これは1950年出版のアンソロジー『フランス料理』L’art culinaire français に収められている。

フライパンに油を敷き、玉ねぎ1個の薄切りとポワヴロン3個の薄切りを色付くまで炒める。トマト2個の粗みじん切り、ズッキーニ4個の輪切りとなす5本の輪切りを加える。塩こしょうする。強火でよく炒める。仕上げにペルシアード(にんにくとパセリのみじん切り)を加える。(L’art culinaire français, 1950, p.890.)

『料理大全』は再版されなかったが、アンソロジー『フランス料理』のほうは大ベストセラーとなってこんにちに至るまで版を重ねているから、ニース風ラタトゥイユのフランスでの普及に一役買っているかも知れない。とはいえ、ラタトゥイユはこのアンソロジーの後ろのほう、「地方料理」の章に地味に出ているだけなのであくまでも可能性のひとつとしか言えない。それに、このレシピではひたすら強火で炒めることになっている。蓋をして弱火でことこと煮るわけではない。

1953年のキュルノンスキ『フランスの料理とワイン』に収められているニース風ラタトゥイユのほうがこんにち知られている作り方に近い。

下ごしらえ…1時間 調理時間…50分〜1時間 材料 玉ねぎ…2個(薄切りにする) ズッキーニ…6個 なす…6本(皮を剥き、大きめのさいの目に切る) トマト…8個(つぶして種を取り除き、粗みじん切りにする) ポワヴロン(パプリカ)…2個(太めの千切り(ジュリエンヌ)にする) にんにく…3片(皮つきのまま) ブーケガルニ…1 オリーヴ油…200ml 塩 こしょう ココット鍋か片手鍋に油を入れ、薄切りにした玉ねぎを投入する。軽く色付くまで炒める。にんにくを加え、5分間混ぜながら炒める。ポワヴロンとトマトを加える。 この間に、油を敷いたフライパンで茄子とズッキーニをこんがり炒めておく。ざる(パソワール)にあげてよく油をきり、ココット鍋に加える。 塩こしょうする。ブーケガルニを加え、蓋をして弱火またはオーヴンに入れて1時間程加熱する。冷、温、どちらでも供する。(Curnonsky, Cuisine et vins de France, 1953, p.654.)

このレシピで作る場合、オリーヴオイルの量にたじろいではいけない。油で煮るつもりで調理すること。大切なポイントだ。

はじめに書いたように、こんにちではラタトゥイユと言えばニース風の野菜の煮込みを指す。「ねずみの餌のごとき不味い煮込み、残り飯」の意味だったラタトゥイユ ratatouille が、きちんとした美味しい野菜料理であるニース風ラタトゥイユにとって代わられたわけだ。

ところで、現代日本では「ラタトゥイユの素」のようなレトルト調味料などがあるらしい。日本の一般的な家庭料理で「ポトフ」と呼ばれているものがフランス料理のポトフと似ても似つかないものになっているのと同様、ラタトゥイユも随分遠くへ来たものだと思う。

(2014年9月)

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