1年ほど前に書いて、思うところあって非公開にしていた投稿だが、再度公開してみる。


フランス語を学びはじめた頃、「フランスにベーコンはない」と授業で教わったのを憶えている。ごく普通のフランス語の授業だったから、教師の雑談だったと思う。

当時、ハンバーグや牛フィレのステーキの周囲にベーコンを巻きつけるというのがよく行なわれていた。アスパラベーコン巻きが流行りはじめた頃だったろうか。いずれにしても、ベーコンを巻くのがイギリス・アメリカ起源だと知ったのはずっと後になってからのことだから、肉を焼くのにわざわざ匂いの強いベーコンなんぞ巻かなくてもいいだろうに、と不思議に思っていた。ただ、当時は食文化を専門にするつもりがなかったので、それ以上調べたり考えたりはせず放置していた。

その後、日本の自称フランス料理ではベーコンを用いることが少なくないと知った。留学から帰って来てから時折接する機会のあった日本のフランス料理には強い違和感を覚えていたから、さもありなんとは思ったが、食べなければいいだけのことなのでさして気にもとめなかった。

エスコフィエ『料理の手引き』の全訳出版を企てた際に、既訳の問題点をまとめるよう編集者から求められて『エスコフィエ フランス料理』を読まざるを得なくなった (出来の悪い訳書だということは伝聞で知っていたのでそれまで読まないようにしていた。ちなみに新訳出版の企画は却下された)。「誤訳の総合商社」のごとき惨状に呆れたが、その中に、ベーコンに関わるまことにお粗末な誤訳があった。

ルルヴェ用のフィレは普通はベーコン、場合によってはトリュフか塩漬け牛タンを刺す。 料理の種類によってはときどきデュクセル・セーシュかマティニョンで包むが、その時はピケする代わりにベーコンのひもをかける。(角田明訳『エスコフィエ フランス料理』柴田書店、p.596)

「豚背脂」とすべきところをどういうわけかベーコンと誤訳している。これではフランス料理にならない。原文は

Le filet pour pièce de Relevé est généralement piqué de lard ou, selon les cas, de truffe ou de langue écarlate. Selon le genre de sa préparation, on l’enveloppe parfois de Duxelles sèche ou de Matignon. Il est alors bardé au lieu d’être piqué. (Escoffier, Le guide culinaire, p.423)

あらためて訳しなおしてみると

(大皿で提供する、)フィレを丸ごと調理する料理では、拍子木に切った豚背脂を刺す。トリュフや赤く漬けた牛舌肉を刺すこともある。 料理によってはデュクセル・セッシュやマティニョンでフィレを覆う。その場合は、拍子木に切った背脂を刺すことはしない。背脂のシートでフィレを包む。

gouffe_fillet_de_boeuf

エスコフィエよりも30年ほど前のものだが、グゥフェ『料理の本』に、豚背脂と赤く漬けた舌肉を拍子木に切って牛フィレに刺した料理の図がある。こういったものを見れば一目瞭然だと思うのだが、どうしてベーコンなどという訳語をあてたのか。拍子木に切った豚背脂などを刺すのは装飾の意味合いが大きいのだから、脂身と肉が混ざったベーコンでは具合が悪かろうに。

『エスコフィエ フランス料理』にはもっとひどい誤訳がたくさんある。というか、正確に訳されている部分を探したほうが早いのではないかという気さえしてくる。

だが、出版社が既訳を維持し、新訳は出さないと決定したのだからそのことについていまさら文句を言うつもりはない。世の関心を引くことのできないものなのだから、出版社として当然の判断だと思う。

前書きが長くなってしまった。さて、本題の lard である。

lard 豚背脂

lard (ラール) という語は、単独で出てくる場合はほぼ確実に「背脂」の意味と理解していい。gros lard と表記することもある。

長い棒状に切ってラルデ針という道具で肉の内部に刺し込むことを larder (ラルデ) という。

豚背脂を拍子木に切ったものは lardon (ラルドン) と呼ばれるが、lardon は単に形状だけを意味したり(野菜のラルドンという言い方もある)、後述の lard maigre (ラール・メーグル)のラルドンもあるのでいささか厄介な語。

豚背脂をシート状に薄くスライスしたものはローストやブレゼといった加熱調理の際に肉を包むのに使い、このシートのことを barde (バルド) と言う。また動詞 barder (バルデ、豚背脂のシートで包む) がよく用いられる。

lard de poitrine, lard maigre 豚胸肉(バラ)

lard de poitrine (ラール・ド・ポワトリーヌ)、lard maigre (ラール・メーグル) は豚胸肉(バラ)のこと。通常は塩漬けにしたもの。

塩漬けにした豚胸肉をさらに燻製にした lard de poitrine fumé (ラール・ド・ポワトリーヌ・フュメ) もある。ベーコンと違って燻製の際に完全には火を通していないのが多い。

lard de poitrine を拍子木に切ったのも単に lardon (ラルドン)と呼ばれる。燻製したものは lardon fumé (ラルドン・フュメ)。どちらも家庭料理でよく用いられる。スーパーなどでパック売りされている。

なお、いわゆるベーコン bacon はもともとイギリスのものだが、実際のところ「フランスにベーコンはない」は言い過ぎだと思う。イギリス(and/or アメリカ)式のベーコンも bacon といって一般に売られているし、フランス語の辞書にも bacon の語は収録されている。発音は「ベコーヌ」または「ベクーヌ」のようになる。

そもそも、フランス料理におけるイギリス料理の影響には無視出来ないものがある。エスコフィエにも「ベーコンエッグ」は出ている(それどころか、アイリッシュシチューやハギスだって収録されている)。

saindoux ラード

日本語で「ラード」と呼ばれているのは精製した豚の脂で、熱で溶けやすい(完全に溶ける)。フランス語は saindoux (サンドゥー)。

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