『ル・ギード・キュリネール』新訳の意義とは?

大仰なタイトルを付けましたが、ひとりごとみたいなものです。FBに投稿したけど、ブログ向きかな、と。


たまたま複数の編集者さんと電話やメールでのやりとりがあって、まぁいろんな話をしたんですけど、その後ちょっと落ち着いて、オールドクロウなんて安酒でちょいと晩酌しながら、ふと、『ル・ギード・キュリネール』の新訳をやる意義って何なのか? といういまさらな疑問に立ち戻ってしまいました。

  • 旧訳が誤訳だらけだから? → 原書で読めばいいじゃん
  • 原書は読めない? → フランス語の勉強をすればいいじゃん
  • 翻訳には寿命がある、名著(古典)が読みつがれるためには新訳が必要だ → まことにもっともなことです

でも、日本のフランス料理関係者で『ル・ギード・キュリネール』を原書であれ旧訳であれ、きっちり読み込んだ方ってどれくらいいるんだろう? そういう疑問はずっと前からあるんですよ。で、原書の著作権が切れてパブリックドメインになったいま、さして読みつがれてさえいないものをわざわざ新訳するって、どうなんだろう?

そもそも日本人あるいは日本のフランス料理業界にとって、『ル・ギード・キュリネール』ってのは「必要」なのだろうか? (多分、必要ないという答えがマジョリティじゃないかなぁ)

いや、そんなことよりも、『ル・ギード・キュリネール』ってのはこんにち、「実用書」なのか、それとも「歴史的史料」なのか……? だいたい、あの本のレシピってのは、しっかり読み込んだうえで正確に作ろうとすると、材料やら道具やらも違うし、「再現」そのものが難しいんじゃないでしょうか?

僕個人にとって『ル・ギード・キュリネール』は19世紀フランス料理を体系化した一種の集大成であると同時に20世紀料理の先鞭をつけたもの、という史料的な意味合いが大きいんです。だから、レシピを再現することよりも、その体系や当時のレシピの構造を理解して、「いま」に生かすための「知識のパン種」にする、のが理想かな、と。

「知識のパン種」としての『ル・ギード・キュリネール』はアイデアの宝庫です。レシピを書いてある通りに作る必要なんてないし、上で書いたように、実際問題、100%その通りに出来るわけないんですから。

もう、野菜だって品種が違うし、畜肉も餌や育て方が変わってしまっている。ジビエもヨーロッパ本土のものよりはブリテン島のものが主流。塩や砂糖の精製度も違うし。細かいことを言いはじめたらキリがない。重要なのは、当時そのままを「再現」することじゃなくて、料理のポイントみたいなものをしっかり理解していくことじゃないかな、って思うんですよ。

そういう意味では、『ル・ギード・キュリネール』の新訳はどうしても学術的な正確さが必要だし、そのためには大量の注釈が必要になってくる。どんなに上手に訳したって、それだけじゃ足りないんです。文学作品の翻訳なら、訳注に頼るのは学者と二流か三流の翻訳者だ、って言われますけど、『ル・ギード・キュリネール』みたいな本だとそうはいかない。

ひとつの理想形というかモデルは筑摩書房の阿部良雄訳「ボードレール全集」。あれは手稿からの異同を細かく拾っていて、訳注のほうが分量が多い、というか読むべきは訳注という本。日本語でボードレールの詩にちょっと触れてみたい、というニーズを完全に無視した「学者の翻訳」。それにちょっと近いかなと思えるのが渡辺一夫訳のラブレー。ただあれは本文で思いきった訳をちょこちょこやってるところが「文学者」らしい。実際、名訳だと思います。ただ、文学作品というのは翻訳それ自体を楽しめるものだから、堀口大學みたいなのも好きだし、そういうほうが世の多数派にはいい筈。

僕は学者の世界から離れてしまってそれなりの時間が過ぎちゃったけど、「研究は誰かがやってくれる。でも翻訳はなかなかそうはいかないようで、自分がやるしかない」とおっしゃった先生がいますが、僕の場合もそうなのかな……

でも、中世・ルネサンス期のフランス食文化の研究って、フランス本国では複数の研究者がいて研究も盛んに行なわれているけど、日本だと、「中世は切ったパンを取り皿の代わりにしていた。フォークもなしで基本は手づかみ。野蛮」みたいなイメージがせいぜいでしょう? ところが、取り皿的に使うパンはそういう用途を前提に作られて販売され、使用後は貧民への施しするというなんともキリスト教的な慈善行為につながるシステムだったわけで、取り皿が陶器じゃなかったのが文明の未発達ゆえのものか、っていうとそうとも言いきれない部分だってある。でも、そんなこと皆知らんでしょう? 誰かが研究して、論文でも著書でもいいから広めないと誤解のままずっと放置されてしまう。これもまたよろしくないと思うんですよね。

ここで書いたのはあくまでも僕個人の考えだから、異論はたくさんあるだろうし、だからこそ、『ル・ギード・キュリネール』は原書がパブリックドメインなのだから、僕以外にも新訳に挑戦するひとが出てこないかな、と期待していたりもします。