まねることと学ぶこと

巷ではデザインのトレース疑惑、ありていに言えば盗用が話題になっているようだ。先日、インタビュー(というか実質は対談)で「知識を得るのは(表現者として)自由になるため」ということに触れたが、これとの関係で誤解されやすいことがあるのでちょっと書き記しておく。

「学ぶことはまねること」などという言葉がある。たしかに、外国語学習などを考えればとてもわかりやすいだろう。たとえば録音教材の発音をまねる、すなわち発音の習得につながる。あるいは「習字」。お手本をまねて書くことで字の書き方を学ぶ。

ところで創作においてはオリジナリティがなによりも重視される。というよりも前提である。オリジナリティのない創作物は凡庸と切り捨てられる。丸写し、いわゆるパクリなど論外だ。知的財産権の侵害である。表現者(たとえ自称であっても)が絶対にやってはいけない行為とされる1

このふたつを合わせてみる。学ぶことがまねることだとすると、オリジナリティが必要な創作においては、学ぶなどという面倒なことはしなくていい、というかしてはいけないように思えるかも知れない。ところが事実は逆だ。オリジナリティを獲得するためにこそ、まねることを含めて学ぶという行為が重要なのだ。

いっけん逆説的だがさほど難しいことではない。いわゆるパクリのいけないところは、まねが足りないことなのだ。単純にひとつのものをまねただけだから問題なのだ。あまりにも安易で、あまりにも楽をしすぎている。

いろんなものをたくさんまねて、自分の血肉とする。これが「学ぶ」ということだ。表現者たり得るにはひとつやふたつではいけない。たくさんでなくてはならぬ。それらを自分自身のものになるまで徹底する。そうして獲得した表現手段をいろいろ組み合わせ、活用すればオリジナリティのある表現ができるようになる(ことがある)。

いま、(ことがある)などとやや後ろ向きの言葉をつかったのは、どんな天才にだって凡庸な作品、駄作はあり得るからだ。いわんや天才というにはほど遠い者はどうか。誰もが学ぶことを思いつき、誰もが習得できる程度の表現手段しか持たなければ、凡庸なものしかできないことのほうが多いだろう。

天才と呼ばれるひとたちだって、無から有を産みだしているわけではない。多くの場合「天才」は想像を絶するほどの勉強家だ。そんなこといちいち言わないだけなのだ。

もちろん、他者の模倣などしたことがなく、ろくに学ぶということもしないですばらしい表現をする者もいる。俗にいわれる「天才」のイメージはこういう表現者だろうか。だが、そもそも人間というのはそれ自体が「無」ではない。生まれてからの体験や見聞きしたものの集積がある。それらが表現手段たり得ればオリジナリティのある傑作が産みだされることもあるわけだ。けっきょくのところ、意識せずに「学ぶ」ということをしたのと等価と考えていいだろう。

だが、天才などというものはそうそういない。なろうと思ってなれるものでもない。われわれ凡人は天才のことなど考えなくていいのだ。そんなことより、凡人でもそこそこの確率でオリジナリティのある作品、それもできるだけいいものをつくれるようになるような効率のいい学び方を探求するほうがよほど現実的だろう。


  1. 美術や文学、音楽では、20世紀にオリジナリティ至上主義に対する疑義が出されたが、それはべつの話。