エスコフィエを読め!

長文です。エスコフィエからちょっと離れたところから書きますが、結論だけ先に言ってしまうと、題名どおり「エスコフィエを読め」です(笑。

料理というのは、日々の食事においても、「ハレ」の日の特別な食事でも、食べ手にとって重要なことは、それがまず「身体にとって安全」でありなおかつ「健康に与する」ものであるなら(これらは日々の食事に求められる最低条件なんですけど、現代社会ではなかなかそれも難しくなっているみたいですね)、最終的に意味を持つのは「食べ手にとって美味しい」と思えること、それが正義なんですよね。

たとえどんなに美味しくたって、食べ手の身体や生命に危険性が及ぶもの(たとえばトラフグとか……)、あるいはアレルギー体質のひとにとってアレルゲンが少量でも含まれていたらそれは「猛毒」になります。

そういう危険性をすべてクリアするのは不特定多数のお客さんを相手にする飲食店などでは大変なことだと思います。でも、それだけを満たしていればいいというものではない。とりわけガストロノミーや「ハレ」と「ケ」の中間的な位置にあるビストロのような業態では、「美味しさ」は正義です。というか、絶対条件です。

そんなこと言われんでも解っとるわい、と言われそうですよね。それに、味の好みはひとそれぞれ、十人十色、千差万別、ということもあります。

そう、美味しいかどうかの判断も含めて、「食」というのは本質的に「個人的な体験」なんです。だから、味の好みはひとそれぞれ、と言える。

ただ、そこで立ち止まってしまったら、結局のところ「俺が美味しいと思うものを作る」というまことにベタな結論で思考停止してしまうんですよね。最近ではその傾向が強くなっているのか、「俺が、俺が」というのを「自己表現」と勘違いしてしまっている料理人さえもいるようです。

「俺が美味しいと思うものが正しい。それに賛同できないならもう食べに来なければいい」という考えに陥ってしまうのは、自分というものを客観視できていないからなんです。

味覚というのは、舌にあるいろいろな受容体が、甘さ、塩気、酸味、苦み、うま味、などの物質を関知して、それを受け取ったという信号を脳に送る。ちなみに、よく知られているように「辛み」は「痛覚」ですね。亜鉛不足による味覚障害とかの問題を抱えていなければ、そういった味覚というのは大体のひとが共通しておなじくらいのレベルで知覚し得るものです。

ところが、その知覚したものを受け取る側の脳において、どういうふうに「認知されるか」ということになると、「ひとそれぞれ」になってくる。

よく言われるように「食べなれたものが美味しい」ということはあります。それは既知の味ということです。で、問題になるのは、ひとが食事をするとき、口と脳だけで「美味しさ」を判断しているかというと決してそんなことはない。視覚や触覚(口当たりも含めて)、聴覚さえも関係しているんです。これらの感覚を総合して「美味しい」か「美味しくないか」という「認知」が脳でおこなわれているんです。

これを「俺が美味しいと思うものが美味しいんだ」主義のレストランの料理人さんの場合にあてはめてみると、上で言ったような条件がある程度揃った状況においてその認知が可能となる。

思考実験だけで充分だと思いますけど、そういう料理人さんが作った料理を、盛り付けを変えたり、食べる場所を変えたり、照明の色は明るさを変えたりした場合にどうなるか? それでも「俺が美味しいと思ったものだから俺にとっては美味しい」と主張できるか? ということです。さらには「味の好みは十人十色」なんて言葉で逃げられるか? ということなんです。

さらには、食べ物、料理というのはしばしばその背景にストーリーを持っているケースがあります。それはどこかの有名生産者の野菜とか有名ブランドの畜肉とか家禽とか、どこかの海で穫れたての魚介とか、それを誰某という目利きが選びぬいた、とか。

あるいは料理そのものが物語を背負っているケースもあります。ピーチメルバなんか有名な例ですね(あれはオーストラリアの歌手、ネリー・メルバがロンドンの歌劇場でワーグナーのローエングリンのエルザを見事に演じ歌ったことにちなんで、サヴォイホテルで、白鳥の氷の彫刻の上に銀のプラトーを置き、その上に盛りつけた、というのが最初だったというエピソードがあります。ここで、白鳥の氷の彫刻、が何を意味するのかを知らないと、ふーん……で終わっちゃいますね。ローエングリンというのは聖杯物語群に出てくるペルスヴァル(パーシヴァル)の息子で、「白鳥の騎士」という設定なんです。で、あの有名な「結婚の行進曲」も出てくるオペラなんですけど、エルザは最後に死んでしまうんです。もちろんそこまでの深読みはしなくていいでしょうけれど、ピーチメルバ=氷の彫刻の白鳥=ワーグナーのオペラ『ローエングリン』くらいは知っていないとこのささやかなデザートの真価は理解できないかも知れません。

逆に、フランス料理店にデートに言って、最後にピーチメルバが出てきたとする。そのタイミングで指輪を渡してプロポーズしたとする。オペラが好きな、あるいは一定以上の社会階層で教養のある女性なら、

「で、わたしはエルザであなたは崇高な使命を果すべき騎士さまってことね。最後はわたしがあなたの使命の犠牲になる、と……」

ひょっとしたら、このプロポーズは失敗に終わるかも知れません。

でも、現代日本でそんなことまで、たかだかピーチメルバで語れる人間はそうそういない、だから桃缶とバニラアイスだってピーチメルバってことになっちゃう。そのひとにとってはそれがピーチメルバだから、美味しいと思っていればいいんです。でもそうじゃないケースだってあり得る、ということ。

人間は他人を「客観的」に見ていますよね。まぁ、同情とか共感とか、感情面ではいろいろあっても他者はあくまでも他者であって、自分の主観を100%シェア出来るわけじゃない。で、同じように自分というものも、じつは自分という意識がちょっと離れたところから見ている感じになることがありませんか? 自分を「客観視」するということなんです。そのあたりをうまくコントロールしていくと、「俺が美味しいと思うものを作る」ということを自信をもって言いきれなくなってくるはずです。「俺って何?」ということになっちゃう。これもまた思考停止になりやすいポイントですね。

現実問題として、「食」というのは本質的に個人的な体験だから、共有し得るものはできるだけ共有しておいたほうが「美味しい」に出会える確率は上がります。レストランで顧客データが重要だと言われているのはそういうことが本質にあるんだと思います。

エスコフィエ『料理の手引き』第二版序文の後半で、カレームの逸話として「料理に決まり事なんてたったひとつしかない。それは仕えている方(レストランならお客さん)に満足してもらうことだよ」という言葉があります。

さて、いろいろとネタをちりばめつつ書きましたけど、結論を言うと、さいわいなことにフランス料理という「枠組み」があり、そこにはエスコフィエという「共通言語」があるというのが世間一般の認識です。これはつまり、お客さんに満足してもらえるように出来る確率が、「俺が、俺が」な料理よりもはるかに高い、ということなんです。

だから、「フランス料理」をやるのであればエスコフィエ『料理の手引き』くらいは絶対に読んでおくべき、ということになります。なぁに、大して難しい本じゃないし9割以上はレシピだから、ページ数だけは多いけれど、なんとかなりますって。フランス語も9割くらいは平易で、初級外国語の教材にちょうどいいくらいのレベルですから。もっとも、僕がいま取り組んでいる「全注解」だとボリュームがヘタしたら原書の倍以上になるでしょうけど(笑

昨今の「俺が、俺が」な料理の構造的問題についてはちょっと前に別のところで書いて、ある方が「まとめ」を作ってくれたので、詳細な分析が必要ならばまたの機会にしたいと思います。