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ギヨーム・ティレルはまず、王妃ジャンヌ・デヴルー付きの厨房見習いとなり、のちにフィリップ・ド・ヴァロワ、次にヴィエノワ王太子、さらにノルマンディ公に厨士として仕える。1373年にはシャルル5世によって国王付き料理長(エキュイエ1・ド・キュイジーヌ)に任命される。『ル・ヴィアンディエ』の執筆はこの時期(1)。シャルル6世の治世には料理担当侍従長となり、1392年に「メートル・デ・ガルニゾン2」に叙せられる。文献によると、タイユヴァンの没年は1395年ごろである。サンジェルマン・アン・レの近く、ノートルダム・デヌモン修道院に葬られた。タイユヴァンは生前、そこに礼拝堂を建立したのだった。
(1)ピション男爵は、『ル・ヴィアンディエ』の執筆時期を1380年以前と考えている。
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墓碑は立派な彫刻が施されたもので、現在はサンジェルマンの博物館3に保存されている。甲冑に身を包んだ男の姿が中央に、両脇に二人の女性、ジャンヌ・ボナールとイザボ・ル・シャンドリエの姿が彫られている。男が携帯している盾には3つの鍋と、その上下に6輪の薔薇が描かれている。
墓碑の画像を二つ掲げておく。ひとつめはピション、ヴィケール校訂版に収録されたギヨーム・ティレルの墓碑の絵。向かって左が最初の妻ジャンヌ(死別)、右が2番目の妻イザボ。ふたつめはサンジェルマン・アン・レ、サン・レジェ教会にあるギヨーム・ティレルの墓碑の写真。
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フロワサールの『年代記4』に出てくる、フランス王の挑戦状をイングランド王へ届けた料理人がギヨーム・ティレルだと見做されたこともあった。これに対しシメオン・リュースは、彼がノルマン人だったと考えた。
長いあいだ、タイユヴァン=ギヨーム・ティレルが『ル・ヴィアンディエ』の著者と考えられてきた。ゲガンも、『ル・ヴィアンディエ』校訂版を作ったピションとヴィケールも同様だ。しかし、近年の研究によってギヨーム・ティレルが『ル・ヴィアンディエ』の著者と言いきれないことが明らかになっている。
とはいえ、ギヨーム・ティレルが中世最大の料理人であったことは疑いようがなく、たとえ著作がなくとも、食文化史において重要な研究対象であることに変わりはない。