p.XVI(2)=p.XVII(1)

曲芸師の類が呼ばれるのは豪奢な宴会だけだったし、孔雀や大きな砂糖菓子は貴族の屋敷の宴で供されるだけだった。しかし、料理の作り方はブルジョワの屋敷でも大公の屋敷でも同じだった。素材をマスキングしたり、違うものの見た目に仕立てるということが一般的に行なわれていた。タイユヴァンは、タンシュとうなぎ、あるいは仔牛の頭を足の肉を使って、ちょうざめの姿に仕立てる方法を記している。フロワサールは1380年ごろの宴会の様子を書いているが、「もとの素材が何だか分からないほど珍妙に加工された」料理が山ほど供されるのだという【原注21】。スペイン料理のように、塩味と砂糖の甘味が共存していた。こんにち我々が肉に塩で味つけするように砂糖を使っていたのだ。しかも、カレーム2なら髪を逆立てて怒るような食材の組み合わせをしていた3【原注1】。

【原注2】グランド・キュイジーヌでは、素材の見分けがつかないよう加工することが長い間おこなわれた。ピエール・デトワルによると、1597年3月5日、アンリ・ド・モンモランシの息子の洗礼祝いの宴では「すべての魚は肉料理の見た目にうまいこと仕立てられていた。どの魚もほとんどの者には見たこともない海の怪物で、実にいろんな所から運ばせたものだった」。

【原注1】タイユヴァンには、油で炒めた玉ねぎをアーモンドと合わせる(ドイツ風ブルーエ)、りんごのタルトに炒めた玉ねぎを混ぜ込む。さらには、ラードで炒めた玉ねぎを敷いた上に甘い味つけの山うずらをのせる(山うずらのトリモレート)といったレシピがある。


  1. 原注番号は原書のままなので注意。 

  2. アントナン・カレーム(1784-1833)、19世紀を代表する料理人。 

  3. あくまでもゲガンの主観的評価であることに注意。 

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