『ゲームの歴史』(講談社、2022年)という本の内容が誤りだらけだという指摘を受け、出版社が販売中止にしたという話題は記憶にあたらしい。書店やすでに購入した人からの返品も受け付けたというのだから、社会の公器たる出版社の矜持と一連の流れに見られた自浄作用をほんとうに清々しく思った。

間違いだらけの内容でなんと半世紀以上もそのまま販売され続けている料理書がある。S出版社の『エスコフィエ フランス料理』だ。August Escoffier, Le guide culinaire, 1903-1921. の翻訳書ということになっている。『なっている』と書いたのは翻訳と言うにはあまりに不誠実なものだからだ。S出版社には雑誌連載をやらせてもらったし、フランス語校閲の仕事をわずかながらもらっていたからいろいろ「忖度」してきたわけだが、もはやそんな必要もあるまい。フランス語校閲の仕事も事実上切られちゃったし。料理、飲食業界での僕の影響力なんてゼロなんだから歯に衣着せぬ物言いをしたってどうということもないはずだ。

かつて雑誌連載をやらせてもらっていた頃に、エスコフィエの新訳をS出版社に出してもらおうとしたことがある。『エスコフィエ フランス料理』の重大かつクリティカルな誤訳をリストアップして編集さんに渡した。会議で「エスコフィエの新訳はやらない」結論になったという。営利事業だからその結論を外部の者が覆すことはできない。だからそこでおしまい。僕は「残念だけど仕方ないですね」としか言えなかった。フランス語校閲の仕事がもらえなくなると困るし、なにしろ料理本出版の権威、一流出版社と評価されているところに真っ向から喧嘩を売るのは在野の人間にあまりに荷が重いし不利だ。

だけど『エスコフィエ フランス料理』はもはや事実上「古本」つまり中古でしか流通していないとみなしてよさそうだからこういう批判をしたってS出版社の事業にはなんの影響もないと思う。だいたい僕の言うことなんてごまめの歯ぎしりだしね。

『エスコフィエ フランス料理』はとにかく誤訳が多い。数でいえば数百じゃすまないんじゃないかとさえ思う。なにしろ料理人さんたちが口を揃えて「理解できない」「翻訳がゴミ」といっていたくらいだ。印象深い例をひとつあげると、ベシャメルソースのレシピ。うかつに本文を引用すると文句言われるかもしれない(昨今は著作権法における引用の扱いがおかしいと思えるケースも多いからいらぬ火種は避けたい)のでどうしても見てみたいなら図書館に行くかメルカリあたりでゲットするといいだろう。意味が通らないところはほぼ確実に誤訳だ。ほかにもたとえばカトリックの小斎(肉断ち)の場合の作り方に言及しているところ、「絶対に脂肪を含んでいると具合が悪い」みたくやってる。それじゃ意味が通らないんだよね。だいたい小斎なんて西ヨーロッパ文化を学ぶなら学部生レベルで知ってなきゃおかしい基本事項でしょうに。

さらには鴨のポワレを「あひるのフライパン焼き」としていたり。『あひる』はいいんですよ。正しい。野生でないカナールはまぎれもなく「家鴨」だから。問題はポワレ。エスコフィエのポワレはいまのポワレとまったく意味が違っていて、鍋底に香味野菜(マティニョン)を敷き詰めて肉を入れ、密閉して加熱すること。注釈をつけないとわからないレベル。あるいは薄くシート状にスライスした豚背脂のことを「ベーコン」とやっちゃってたり。

『エスコフィエ フランス料理』ではこういうのが山のように出てくる。そもそも4つある序文のうち最初と最後をなんか適当に合成したみたいなわけのわからんものだけ序文としているのを見た時点で、誠意ある翻訳でないことくらいわかりそうなものだ。本当に不誠実というか、期限までに納品すりゃいいんでしょ的な実務翻訳の雰囲気を感じる(僕自身それなりの期間実務翻訳をしていたからわかる)。

エスコフィエの原書はフランス料理とそれをベースとして展開した西洋料理、ガストロノミーの基本文献なのにその「日本語訳」がまったくのトンデモ本だったわけで、よくもまぁ業界が崩壊せず栄華を築いてきたものだと皮肉を込めて褒め称えたくなる。なにしろ50年以上放置されていたその問題意識のなさはものすごいと思う。そう、ここが最大の批判したいポイント。誤訳があるのはしょうがないとしても、S出版社が長年に渡ってそれを放置し、読み手(料理関係者)もまるきり問題を認識してこなかったこと。

翻訳は「更新」されるべきもので「新訳」はいくらあってもいい。僕は常識だと思っていたんだけど、どうやら世間というか料理関係ではそんなことはないらしい。

その結果なのだろう、もはやエスコフィエを学ぶ、読む必要すら認識していない料理人さんがほとんどになってしまったようだ。エスコフィエ『料理の手引き』アップルブックス版を出して、「必要なら買って読むだろう」とのんびりしていたら誰も興味すら持たない現状を知って愕然としているところだ。

『エスコフィエ フランス料理』は読んでもわからない(誤訳だらけだから当然)古いものだからわからないのだろうエスコフィエは古いエスコフィエなんてもはや気にする必要すらない過去の遺物(イマココ)というのが逆らいようのない大きな流れだろうか。悪いのはエスコフィエじゃなくて翻訳なのに……

いまだにS出版社のを後生大事に飾っているひとに強く伝えたい。「それ間違いだらけのインチキ本だから捨てたほうがいいですよ」と。正統派のフランス料理とかクラシックとかエスコフィエの料理とか標榜する料理人さんならなおさら。

アップルブックスで五島訳エスコフィエ『料理の手引き』を読んでください。価格のことで文句言う人がいるかも知れないけど、専門書だから経費、公費で買うたぐいのものだし、あんまりにも需要が縮小した結果としての価格。その需要を縮小させた原因が料理関係者の側にもあることは理解してほしい。(© 2023 Manabu GOTO)

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