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カテゴリー: エスコフィエ
アンドロイド端末でもエスコフィエ『料理の手引き』電子書籍普及版が利用できるようになりました
ソース・シュプレームは鶏胸肉用
牛肉よりも鶏肉が人気という記事をネットニュースで見かけた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7d3b5e02579a4a3375195cfcdcf8ded7adc367fd
おなじような記事はほかにたくさんあるから、そういうトレンドなんだろう。日本では鶏肉というとなによりもまず唐揚げが好まれるみたいだ。それももっぱらもも肉。鶏胸肉は人気がないのか重量あたりの単価はずっと安い。近代日本ではながらく牛・豚・鶏の順で格付けされてきたから、正肉としては鶏胸肉はほぼ最下位ということになる。
それをあたりまえと思っているひとに、中世から近世(あるいは近代初期)のフランスにおける食肉のランクは鳥類のほうが牛・豚・羊のような獣肉よりずっと高かったというと驚かれるだろう。天により近いところにいる鳥類が地面にしばりつけられたように生きている獣より高等(上等)のは、神のいる天上界と人間などの地上界を対比する垂直的世界観のあらわれのひとつだ。
しかも、まるごとローストした鶏を宴席などで客に供する場合はもっぱら胸肉だけだった、つまり胸肉以外はあまり価値のないものとされたなんてまるで信じてもらえないかもしれない。鶏もも肉をあまり評価しなかったのが世界観にもとづくものなのかたんに食材としておいしくないと感じていたかはわからない。
エスコフィエ『料理の手引き』ではグルーズ(雷鳥の仲間)のもも肉は匂いがきついから使うなと書かれている。これは食材としておいしくないからというまことに素直で合理的な理由だと思う。べつにこの注意書きをきっちり守る必要なんかなくて、おいしいと思うなら食べればいい、食べさせればいい。おいしさの基準というのはその文化圏における慣習的な要素がかなりある。皆がおいしいと思ってるからおいしい、昔からおいしいと思って食べてきたからおいしい。そういうものだ。
グルーズのもも肉については、フランス料理店を営んでいる知人によると、いま日本で秋に手にはいるスコットランド産はフランスで食べたものに比べると格段に匂いが弱いらしい。猟鳥というかジビエは獲れた場所の自然環境やら獲ったあとの処理、保管(熟成)さらに調理まで味を左右されるファクターが多いから、おいしいと思うならエスコフィエにどう書いてあろうと自信をもって食材として大切にあつかえばいい。
さて、ソース・シュプレームというのがある。かんたんにいうと鶏のヴルテに生クリームが入ったものだ。チキンベースの生クリーム入りホワイトソース。シュプレームsuprêmeは辞書をひくと「至高の」とあるから至高のソースの意味だなどと勘違いするむきもあるかもしれない。いや、それだってかならずしも間違いじゃないんだが、裏付けになる知識がないと「悪意のないデマ」になりかねない。シュプレームには名詞として「鶏胸肉(とりわけささみ)とそれを主素材とした料理」の意味がある。これはとても大切な知識だ。覚えていて損はないと思う。
エスコフィエ『料理の手引き』でソース・シュプレームを検索するとヒットするほとんどが鶏料理だ。仔牛・豚・魚介のレシピも出てくるが全体からするとごくわずかだ。だからソース・シュプレームは鶏胸肉用のソースと定義できる。有名なブシェ(ヴォロヴァン)・レーヌは鶏肉じゃなくてリドヴォー(仔牛胸腺肉)じゃないかというひとがいるかもしれないが、エスコフィエでは鶏胸肉を使うことになっている。それが絶対正しいということじゃなく、エスコフィエの時代はそうだった、ということ。
料理なんてものは食べ手にとって文字通り生きる糧、固体としての生命を健康に維持するための栄養であっておいしければなおいい。こんにちの日本のような飽食の時代であればおいしいことこそが正義ともいえる。だから構成要素の置き換え(代用)、追加、省略などとても自由におこなわれる。結果的に自由なんだったらどうやってもいい、知識なんていらないじゃん、というひとがいたら気をつけたほうがいい。
昨今話題のAIだって大量のデータから抜きだしたものを組み合わせている。データがなければ何もできない、たんなる人工無能だ。人間のばあいは知識というデータがある。どんなことでも知らないよりは知っていたほうがいい。AIより人間が確実にすぐれている点は物事を理解することにある。ただ困ったことに人間は知らないことを理解できない。わずかな想像すらできない。そして中途半端な知識は悪意のないデマのもととなる。それは文化の断絶をもたらす。
まとめると
- 近世(あるいは近代初期)までのフランスの高級料理において、食材として鳥類が獣より格上だったのはフランス人の世界観にもとづく
- これと関連してフランス高級料理の文脈では鶏は胸肉こそがおいしい食材であり、もも肉はあまり評価されなかった
- 鶏胸肉はシュプレームと呼ばれた
- ソース・シュプレームは鶏胸肉用のソース
エスコフィエ『料理の手引き』電子書籍普及版での「シュプレーム」検索結果(一部) エスコフィエ『料理の手引き』電子書籍普及版での「シュプレーム」検索結果(一部) エスコフィエ『料理の手引き』電子書籍普及版 五島学訳 アップルブックス
https://books.apple.com/jp/book/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A8-%E6%96%99%E7%90%86%E3%81%AE%E6%89%8B%E5%BC%95%E3%81%8D-%E9%9B%BB%E5%AD%90%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E6%99%AE%E5%8F%8A%E7%89%88/id6477338159?l=ja&ls=1(©2024 lespoucesverts Manabu GOTO)
ボヌファムはおばちゃん・おかん
感情的な言葉狩りがはげしく、発信者側もコンプライアンスという名の事勿れ主義で言語表現が平板なものになってしまった昨今、それでもあえて言う。
ボヌファムはおばちゃんのことだ、と。
といっても否定的なニュアンスどころか、むしろプラスイメージの、とてもおいしい料理を作ってくれる「おばちゃん」だ。エスコフィエ『料理の手引き』からリストアップすると
- デュクセル・ボヌファム
- スープ・ボヌファム
- セロリ・ボヌファム
- サーディン・ボヌファム
- ソール(舌びらめ)・ボヌファム
- テュルボタン(鰈の近縁種)・ボヌファム
- 仔牛コット(骨付きロース)・ボヌファム
- 羊肩肉・ボヌファム
- 羊ジゴ(骨付きもも)・ボヌファム
- 乳呑み仔羊カレ(骨付きロース)・ボヌファム
- 鶏のココット焼き・ボヌファム
- 鶏ローストのエマンセ(スライス)・ボヌファム
- モヴィエット(つぐみ)・ボヌファム
- ベギネット(ジビエ)・ボヌファム
- 芽キャベツ・ボヌファム
- プティポワ・ボヌファム
- りんご・ボヌファム
レシピを読むと、あるいは食べてみるとわかるが、手順の多い凝った料理と対極にあるようなシンプルでちょっと家庭料理を思わせるようなものが多い(というか全部そうだ)。
そういうシンプルで「ほっとするおいしさ」の料理に「ボヌファム」という名称が付されるわけだ。
日本ではとりわけソール・ボヌファムが有名だからか、主素材に白いソースをかけてオーブンなどで焼き色をつけたグラタンみたいなの、という理解をされることが多いようだが、ボヌファムは料理の「性格」をあらわしているだけで、調理法はひとつじゃない。レシピを読めばすぐわかるだろう。
このボヌファムをどういうわけか「貴婦人風」と日本語にするひとがいるらしい。いや、日本語にするのはもちろん大切なんだが、貴婦人って? どこをどうしたらそうなる?
フランス語で書くとbonne femme。bonneは形容詞bon(良い・おいしい)の女性単数形、femmeは女性名詞で「女性」のこと。あえて文脈なしに逐語訳するなら良い女性とでもなろうか。そこから日本語で類推して貴婦人となったのか?
日本語の貴婦人という言葉にもっともちかいのはdameだろう。英語だとLadyが相当する。もともとは貴族の女性をいった。だから貴婦人。
中世末期につくられた有名なタペストリー「貴婦人と一角獣」はフランス語でLa Dame à la licorneだ。ただし時代が変わると言葉の使い方も変わる。ヴェルディのオペラ『椿姫』の原作となったデュマフィスの小説のタイトルはLa Dame aux caméliasだが、ヒロインは高等娼婦(クルティザーヌ)だ。貴族の女性ではない。あるいはWCの入口にあるMonsieur / Dameの表記(プレート)は男性・女性のこと。このあたりも英語のLadyと似たような感じだ。
ついでになるが、貴族の若い女性を指す言葉にdemoiselleがある。令嬢などと訳すことが多い。この語はかなり古い時代から文学作品などで娼婦を指す表現になっている。娼婦の純愛というのは古来から文学で重要なモチーフ・テーマのひとつだからいちがいには言えないけど、dameとかdemoiselleというフランス語は解釈に注意しなくてはいけない。
それはともかくボヌファムである。ロワイヤル仏和中辞典(旺文社)だとfemmeの項に熟語として用例と訳語がならんでいる。訳語だけ引用すると、女、女房、かみさん、年配の女、おばさん。
料理の場合はボヌママンbonne mamanとほぼ同義とされている。ジャムのブランド名としても有名だ。イタリア風にいえば「マンマの味」ということ。
だから、ソール・ボヌファムをすっかり日本語でいうなら「おかん(おばちゃん)風舌びらめ」ということ。
食べるひとにとって料理なんておいしければいいんだから、料理名の日本語なんかこだわってもしょうがないのも事実だけど、間違ったまま覚えているよりは正しいほうがずっといいと思う。というか、ひとの味覚が知識や情報によって左右される(先入観とか知覚バイアス)のもまた事実。(2024年2月)
古典料理書を未来へつなぐ
オーギュスト・エスコフィエ(1946〜1935)の主著 Auguste Escoffier, Le guide culinaire, 1903-1921. を日本語にしたものは4つある。
(1) 秋山徳蔵 著『仏蘭西料理全書』,秋山編纂所出版部,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/970458。
(2) 山本直文, 日本司厨士協同会 編『標準仏蘭西料理全書』第1巻,日本司厨士協同会,昭和13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1257534。
(3) A.Escoffier 著 ほか『エスコフィエフランス料理』,柴田書店,1970. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12101395。
(4) オーギュスト・エスコフィエ 著, 五島学 訳『料理の手引き』電子書籍, アップルブックス, 2022.このうち(1)は「秋山徳蔵著」となっている。エスコフィエの名は一文字も記されていない。つまり翻訳ではなく秋山徳蔵の著作ということ。ただし実態としては九割以上エスコフィエ『料理の手引き』を日本語にしたものだ。
(2)は序文にもあるがペラプラとエスコフィエの著作からレシピを選んで一部に簡単な解説を付けたもの。翻訳書ではない。ただし国会図書館の書誌には第3版もあり版を重ねたことがうかがわれる。日本でエスコフィエ『料理の手引き』のレシピが広く知られるようになったのはこのアンソロジーによるところも大きいだろう。
(3)は刊行時に本邦初訳とされていたもので、現在にいたるまで50年以上にわたって日本でエスコフィエといえばこの柴田書店を指す。序文が原書初版のものと第四版のものを途中でつなぎあわせた奇妙なものとなっており、各所で重大な誤訳がみられる。誤訳の数は膨大でとんでもない誤解・無理解にもとづくと思われるものも多い。訳出作業は訳者としてクレジットされている角田だけではなくほか数名があたったようで、訳語の不統一も目立つ。付録の用語集は訳文とまったく関係性がみられない、たんなる単語集。読解の役には立たないだろう。伝聞にすぎず典拠はないが、訳出の際に調理関係者とのやりとりはまったくなかったらしい。
(4)は僕が複数からの依頼、提案をうけて2017年ごろにフェイスブックでグループを作り気鋭の料理人5名の協力を得て訳文と注、電子書籍ならではの内部リンクなどを作成したもの。詳細な注と内部リンク、用語集、索引を付した「完全版」(2022年)と、訳文のみの「普及版」(2024年)がある。完全版と普及版の訳文はまったく同一。
さて、翻訳には寿命がある。「いま」に活かし次代につなげるためにも名作、古典は絶えず翻訳をあたらしくするのがいい。文学の愛好家や専門家のあいだでは常識となっていることだが、こと料理の分野ではあまり認識されていないようだ。
翻訳というのは訳者の解釈にすぎないから、翻訳書が複数あることはむしろ喜ばしい。シェイクスピアにしろラブレーにしろプルーストにしろ訳者によって作品の読後感は異なる。別の作品ではないかという印象をうけることさえある。どれがいいかは読者が決めることだ。ただ、読みもしないで「あの翻訳はだめだ」とか「この翻訳がありさえすればいい」などと言いきるのは滑稽だし、エスコフィエのような専門書であれば専門家として充分な知性と知識を持たないことを表明しているにほかならない。
「エスコフィエはもう古い」と断言するひともいる。確かに100年以上昔の本だから古い。ただ、古いものは読む価値がないのか? 何も役にたたないのか?
こういうことを言う料理人の多くはかつて(3)を読んで意味不明さに辟易した経験があるのだろう。その誤訳だらけの欠陥本を50年以上にわたって放置している版元も罪なことをしたものだ。
エスコフィエ『料理の手引き』は「フランス料理のバイブル」ともいわれているわけだが、すくなくとも(3)については読んでも理解できない、実用書なのに実用に適さないことを思うと、キリスト教の聖書を理解しないまま教会でミサを執りおこない説教をするインチキ神父、司祭を大量生産したかのようにさえ思える。
その、キリスト教の聖書だって日本語訳は1978年の共同訳、1987年の新共同訳、2018年の聖書協会共同訳と新訳を重ねている。
繰り返すが、翻訳には寿命がある。
ところで、古典、クラシックというのは人類にとって過去・現在・未来にわたって普遍的な価値をもつもの、という意味だ。古ければなんでも古典と呼べるわけじゃない。ましてやたんなる「昔風」をクラシックと呼びたがる料理関係者が日本に多いのはまったく哀しいことだ。大切なのはその古典の理解、知識をいまに活かし次の次代へとつなぐことだ。
ちょっと現実的なことをいうと、エスコフィエ『料理の手引き』以後に西洋料理を体系的かつ網羅的に俯瞰できる書物は知るかぎり実現していない。そもそもジュール・グフェ『料理の本』(1856)とともにフランスでは21世紀になっても刷りが重ねられており新品が入手できる。料理書の「古典」としていまも生きている。
エスコフィエを崇める必要はない。レシピどおりに作る必要もない。そうではなく、異国の食文化において古典とされている内容を知り、理解することにこそ意味がある。それを現代の異国(つまり日本)に合うように改変するのもいいし、批判あるいは否定するのでもいい。ただ、「知らない」のだけは専門家失格だと思う。
ついでだが、エスコフィエ『料理の手引き』はかならずしもフランス料理の教科書ではない。イギリス、インド、ベルギー、ロシア、イタリア、アメリカなどいろんな地域、国の食文化、レシピがたくさん盛り込まれている。それらのもととなった料理を比較しながら知ることで、こんにちの日本で異国の食文化、料理をどう取り入れて活かすかを考えるいい手本になるだろう。(2024年2月)
Front page of Escoffier, Le guide culinaire, 1903. 秋山徳蔵『仏蘭西料理全書』扉(国会図書館デジタルライブラリー) エスコフィエ『料理の手引き』電子書籍普及版カバー©2024 lespoucesverts Manabu GOTO エスコフィエ『料理の手引き』電子書籍普及版リリースしました
2022年11月リリースの電子書籍、エスコフィエ『料理の手引き』から訳注、内部リンク、用語集、索引を省いた電子書籍普及版をアップルブックスで販売開始しました。フランス料理のバイブル、金字塔と呼ばれる大著をiPhoneで気軽に読めます。原書1ページあたり25円、リーズナブルな価格となっています。
エスコフィエ『料理の手引き』電子書籍普及版カバー©2024 lespoucesverts Manabu GOTO エスコフィエ『料理の手引き』電子書籍普及版アップルブックス販売ページQRコード エスコフィエ『料理の手引き』電子書籍普及版はしがき©2024 lespoucesverts Manabu GOTO エスコフィエ『料理の手引き』翻訳者セルフインタビュー
五島 学
東京都立大学大学院博士課程単位取得。大学講師を経て2005年新規就農。2006年からヨーロッパ品種の野菜生産に取り組む。翻訳業・農業。著書『フランス語レシピで自宅フレンチ 1 料理フランス語文法読本』 Apple Books(電子書籍)。柴田書店「月刊 専門料理」連載「エスコフィエを読む」2011〜2014年(訳・注釈担当)。『エスコフィエの新解釈』旭屋出版(訳担当)。訳書 エスコフィエ『料理の手引き』Apple Books(電子書籍)。「月刊 専門料理」フランス語校正。コレージュキュリネール日本 Collège Culinaire du Japon 会員。
エスコフィエ『料理の手引き』翻訳者である五島が自分自身にインタビューしました。
— 自分で自分にインタビューするってのも奇妙ですね
まぁ普通の感覚だとそうでしょうね。でも、対話形式(対話篇)というのは二人がいいたい放題に言葉を投げつけ合うんじゃなくて、聞き手と語り手の関係に落ち着いちゃうことも多いし、聞き手と語り手両方とも見かけを変えた筆者の分身でしかなかったりする。
18世紀フランスの哲学者ディドロの『ラモーの甥』なんかそうですし、ギリシア哲学のプラトンの著作もそう読めるでしょう。あるいはブリヤ・サヴァラン『味覚の生理学』(美味礼賛)冒頭の対話なんか完全にそうですね。
これらはフィクションのこともあるけど、今回は僕をインタビュー、文章構成してくれる人を探してないだけで、僕は素で話すというか文字にするから、インタビューアーのほうが虚構の存在ですね(笑)。
— いきなり難しい話で煙に巻くのはやめましょう。自己紹介とフランス料理とのかかわりからお聞かせください
いくつかの大学でフランス語の非常勤講師をしていたんですが2005年にやめて新規就農し、ヨーロッパ品種の野菜を中心に栽培しています。取引先はおもにフランス料理店ですがコロナの影響とエスコフィエに専念した結果、ほとんど取引先がなくなっちゃいまして、現在は再建中です(苦笑)。
留学から帰ってきて教師になってからのことですがフランス料理店での食事にお呼ばれする機会があったんです。でどうにも強い違和感を覚えてしまった。コレジャナイ感がすごかったんです。貧乏学生だったから高級な料理なんて食べたことなかったんです。だからかなとも思ったんだけど……あのとき出てきたカブのクリームポタージュ。カブ、生クリーム、バターに違和感を覚えました。まずカブの味が違うんです。普通に日本のカブですからフランス料理らしくなるわけがないんですよ。乳製品もコクがないし香りが違う。それからですね、食べたいものは自分で作らないとと思ったのは。
留学中は毎日学食、ちょっと贅沢して安いビストロ、レストランくらいでした。まだユーロじゃなくてフランの時代ですけど、前菜、メイン、デザート35フランとか。Menu à 35 francs なんて言い方でしたね。このmenuというのは「コース」の意味ですね。学食はパリに何箇所もあったけどほとんどシテ・ユニヴェルシテールの当時リニューアルして間もなかったのを利用してました。日替わりの他ステークフリットとか鶏のロースト(四分の一羽)も選べて13フランくらいだったかな。ちなみに当時1フラン=18か19円くらいでした。
学食の日替わりでよく覚えているのはジゴダニョー、サーモンのダルヌのグリル、なぜか日曜はクスクスだったり。アンドゥイエットも日替わりにあったけどあれは口に合わなかった。いまでもアンドゥイエットは嫌いなんでたんに好みの問題だと思います。でも全体としては学食の食べ物がとても気に入ったと言うかすっかりなじんじゃいました。サイドディッシュにマヨネーズでリエしたセルリラーヴのサラダがあって、気に入ってよく食べてました。
そんなだから、食に対してとりたてて強い関心があったわけでもないし、まさか関連した仕事をするようになるなんて夢にも思ってなかったですね。
ともかく、フランスというかパリの学食メシになじんじゃったのが日本に帰ってきて日本の高級フランス料理ほぼ初体験。学食メシがいいとか正しいとかいうつもりはサラサラないですけどカブのポタージュで猛烈な違和感を感じたわけです。その後もそこそこ名の知れたフランス料理店での食事に招いてもらうことが何回かありましたが、うーん、これ以上はあんまり詳しくいうと差し障りでそうなんでやめときます(笑)。
まぁ、舌が肥えてるわけじゃないから偉そうなことも言えないし、そんなつもりもないんです。ただ、自分の好みがいわゆる日本のフランス料理と違うだけみたいなんで、いいとも悪いともいうつもりはありません。ただ個人的にはインパクトのある出来事だったというだけです。
話を戻すと、市民農園を借りてヨーロッパで美味しいと思った野菜の種を買って作り始めたわけです。おもにイギリスから輸入した野菜の種子を扱ってる業者などから買って栽培し、品種の違いはとてつもなく大きいなと実感しました。7年か8年大学の非常勤講師をやっていたわけですが、研究者として見込みがないのを自覚しまして。ほかにもいろいろ思うことがあって農業に転職したんです。
— で、ヨーロッパ野菜の生産に取り組んだと
はじめは有機栽培系の生産者グループに入れてもらって、レタスとキャベツをやってたんです。でもつまらないし、ストレスになることも多くてレストランむけの産直販売にシフトしました。
フランス料理、イタリア料理のプロを相手にするわけですから、勉強のために「専門料理」を毎月読んだり、フランスのアマゾンからエスコフィエとかの料理書を買って読むようになったんです。プロの料理人さんならエスコフィエくらいはしっかり読んでるだろうからそれを見習おうと。いま思うととんでもない勘違いだったんですけど(笑)。
— 新訳を作ろうと決心したのはどうして?
ある料理人さんから訳してくれないかって言われたんです。野菜のところだけだったらいいよ、って返事したらどういうわけか雑誌連載することになっちゃいました。訳をやるのは僕ひとり。流されちゃいましたがあのとききっぱり断るべきだったと後悔しています(笑)。
だからエスコフィエにたいする愛着とかこだわりみたいなのって感情的にはあんまりないんですよ。とてもシステマティックに構成された歴史に残る名著なのは確かだけど。それはいまもおなじ気持ちです。ただ、訳すっていっちゃったんでそのままずるずる雑誌連載やってました。3年半だっけか、よく続いたと思います。
連載の前提として新たに全訳をつくるということになってました。だから出版社側が新訳は出さないと結論出した時点で連載もやめてチーム解散というかご破算になりました。僕がこの頃にうつを発症したのも大きな原因だったと思います。
— その後何年も空いてしまったわけですね。どうしてまたエスコフィエの訳を再開したんですか?
病気もよくなってきて、いちど訳すと公言しちゃったからにはちゃんとやろうかなと思ったんです。その頃にある編集プロダクションからコンタクトがあって、エスコフィエの新訳をぜひやりましょうってオファーを受けました。それは確かにきっかけになりましたね。結局のところ「頼まれて」という点に違いはないんです。ただまぁ、まったく別の組織、人間から合計2回依頼されてやったのに、最終的にはバックレられちゃった格好です
それはともかく、再始動にあたってフェイスブックにグループを立ち上げて協力者を募りました。熱意のある料理人さんが5人集まってくれまして、下訳の一部や校正を分担してもらいました。
— 共訳じゃなく個人訳になっているのは?
プロジェクトメンバーでの話し合いの結果です。僕が責任とリスクを一手に引き受けることになっちゃった気もするけど(笑)。
— 2022年11月に電子書籍をリリースしました。紙媒体は?
そもそもこのプロジェクトを再開する時点で、僕はEPUBとPDFの組版とファイル作成まではやるけどその先はやらないと公言してたんです。EPUBつまり電子書籍の方はほぼノーコストでリリースできるんでそれはやることにしました。紙媒体については以前にオファーをくれた編集プロダクションに連絡したんですがいい返事をもらえなかったんです。プロジェクトメンバーで相談していったん白紙になりました。
— 電子書籍は馴染みがないというかピンとこない、本といえば紙がいいという方も多いでしょう。
個人的にはもう10年以上紙の本を買ってないんですよ。だから紙の本という形態にこだわる気持ちがわからないです。書籍の本質はそこに書かれた内容、つまり情報そのものなんでiPadでいいじゃん、と。検索機能とか「調べる」とかリンク機能とかメモとか、いろいろ便利ですし。紙の本は重いし、使ってるとすぐボロくなるし、かさばって邪魔じゃないですか。
とはいえ紙の本を拒否することも否定することもしません。僕自身が紙媒体にこだわってない、積極的になれないというだけです。
組版の微調整は必要ですが印刷用のPDFは出せます。あとは紙に固定するわけだからしっかり校正をやる必要がありますね。アップルブックスの電子書籍は購入後もバージョンアップされる、つまり後から修正が効くからいいんですが、紙媒体を出すならそのタイミングでもう1回校正すべきでしょうね。
ただ、現状どこからもオファーがないんで、プロジェクトメンバーにまかせるって言っています。
だから僕としては「紙媒体は現状未定」としか言えないです。
— 紙媒体についてはすでに2社が否定的な反応だったわけですね。どうしてでしょう?
それこそ僕が聞きたいです。きちんとした理由を言ってくれなかったんですよ。僕が著者買取はできないって最初に言ったからですかね。
そもそも出版社側が大量のクリティカルな誤訳をそのままで販売を続けて50年以上経っちゃいました。普通の読者は誤訳かそうじゃないかなんて見分け付きません。ただ、あの本は読んでもわからないから、と放置する。もうエスコフィエへの関心なんて風化しちゃってますよ。新訳をほしいなんて思わない。メルカリで古本を買ってちょろっと目を通したら飾っておく、そこに疑問の余地はない、ってことかも。
そういう意味では、あの「旧訳」ってのはなんて罪作りなものだったんだろうと思います。『料理の手引き』という最高の教科書を普及させるどころか、結果は真逆。関心すら風化させちゃう原因になったわけですから。
すごく乱暴な言い方をすると、おそらく半世紀以上、日本のフランス料理はエスコフィエ『料理の手引き』の深い理解なんかなくても発展、栄華をきわめたわけです。一般的なイメージとして「高級レストラン」というとまずフランス料理を連想する。成功した。それが可能だったのはヌーヴェルキュイジーヌ以前だとまだエスコフィエの孫弟子、ひ孫弟子にあたる料理人さんが現場で活躍していた。たとえ『料理の手引き』の原書を熟読してなくても修行中に身体で覚えたことで充分仕事は成り立っていた、という話を聞いたことがあります。
十数年前にブダンノワールとかアンドゥイエットが日本でちょっと流行りました。ブームのからくりみたいなのは知りませんが、エスコフィエは関係ないムーヴですよね。ところがブダンノワールもブダンブランもアンドゥイエットも『料理の手引き』にちゃんと収録されてるんですよ。アンドゥイエットは既製品を使うことになってますけど。
その昔、80年代後半から90年代前半にかけてアンドゥイエットとかブダンノワールはフランスで食べないほうがいいとフランス語、フランス文学関係の日本人女子学生の間で有名だったのをよく覚えています。ポイントは短期留学とか旅行に関連した話題だったこと。日本のレストランでどうこうというのではなかった。そのくらい日本では知られてなかったものなんです。『料理の手引き』に載ってるのにね。
大昔の日本の料理は一子相伝とか口伝で部外秘のことも多いのに対し、ヨーロッパとくにフランスは料理書というかたちでレシピが公開されてきた、みたく対比で語られることが多いですね。こういうステレオタイプを持ち出すまでもなく、日本では現場修行がとかく重視されてるみたいですしね。厨房で身体で覚えたことだけが正しい、って。「この本にはこういう事が書いてあって……」みたいなことを話したら「そういうの、自分は読まないんで」とキレ気味に返してきた料理人さんは何人かいましたね。よっぽど本が嫌いなんでしょうね。ましてや料理書のバイブルとされるエスコフィエ『料理の手引き』なんて、と(笑)。
— 『料理の手引き』不要説ですか?
まさかそんなことないと思いたいけど、客観的に現状を見たらそうなのかなぁ……
僕みたいな料理の素人は「プロだったら読みこなしていて当たりまえ」と思ってたけど、とんでもない勘違いだったのも事実だし。
『料理の手引き』は小さな個人経営の店から大規模なホテルの厨房までを対象に、フランス料理だけじゃなくイギリス料理、イタリア料理、ロシア料理などを包括的に扱っているインターナショナルなガストロノミーの教科書なんです。しかも大量の知識、情報をシステマティックに圧縮している。きわめて汎用的です。これって場合によってはオーバースペックなのかもしれません。
オーバースペックって嫌われやすいというか受け入れられにくいんですよね。ビデオテープのVHSとベータの規格競争、WindowsとMacintoshの争いとかスペックの高いほうがむしろ負ける傾向にある。
それでも「料理の手引き」は名著ですし、料理書の金字塔です。モンタニェのラルース・ガストロノミックはむしろ『料理の手引き』の補完的な事典だし、アリバブは偏りがある。ペラブラはブルジョワ料理色が強すぎる。あと思いつくのはきれいな写真満載の豪華本か職業リセの教科書くらいでしょうか。どれか1冊といったらやっぱりエスコフィエってなっちゃうんじゃないでしょうかね、いまだに。
— そこでようやく、充実した注を付けた訳本が出た。
フランスのホテル学校、職業リセでつかわれている教科書にはエスコフィエででてくる食材、料理の一部をていねいなプロセス写真付きで懇切丁寧に説明してるものがあります。それもかなり体系的に構成されてるからすごいです。つまり基礎として学ぶべきことをしっかり抑えているわけです。いっぽうで、これは僕の友人である料理人が言ってたんですけど、日本ではエスコフィエをすごいすごいと口先でいうけど表面的なことばかりにとどまってるらしい。僕は料理界のことをよく知りませんが、もしそうだとしたら残念なことです。
でも、エスコフィエ「料理の手引き』は西洋料理についていうなら知識とアイデアの宝庫ですよね。そこに異論はないと思います。だったら口先ですごいというだけじゃなく、無条件にエスコフィエという歴史上の偉人を崇拝するだけじゃなく、きっちり読み込んで活用しないテはないと思います。
レシピに書いてあることをそのままなぞって作るだけじゃなくて、その料理の本質を理解して自分のやりたいようにやるためのヒントにする。知識にしばられるんじゃなくて、好き勝手にやるために知識を利用してやる、くらいの気持ちで読みこなし、使いこなしてほしいですね。
そういう意味でも「日本におけるエスコフィエ『料理の手引き』受容がここから始まる」のを期待したいです。(© 2023 Manabu GOTO)
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五島訳エスコフィエ『料理の手引き』のすごいところ……(1) 訳注がすごい
五島訳エスコフィエ『料理の手引き』のすごいところ……(2) リンクがすごい
五島訳エスコフィエ『料理の手引き』のすごいところ……(2) 内部リンクがすごい
エスコフィエ『料理の手引き』はとにかく無駄を省いた合理的な構成が特徴。これは第1章冒頭でリストアップされているフォンドキュイジーヌによく表れていて、日々の厨房仕事をシステマティックかつ合理的に無駄なくこなせるようにした結果ともいえる。このあたりをきちんと説明するには、本書でうちたてられたフランス料理の体系を真正面から論じることになりやや高度な概念もともなう。それよりは「読み手目線」で紹介したい。
『料理の手引き』各章や節のはじめには概論とか総論的なことがまとめられていることが多いのだが、「これについてはすでにのべたのでここでは繰り返さない」とか「〇〇の章で詳しく論じるからそちらを見ろ」のような表現をよく目にする。おんなじことは繰り返さないのね、というだけのことだが、これがじつに徹底しているわけだ。典型的な例として牛フィレ・フィナンシエールのレシピを見ると
ポワレの方法は7. ルルヴェとアントレの冒頭で説明されているからここではポワレするとしか書かれていない。
2. ガルニチュールに収録されているガルニチュール・フィナンシエールのレシピどおりにガルニチュールを用意して盛り付ける。
1. ソースに収録されているソース・フィナンシエールを用意して料理にかけ、残りは別添する。
つまりこの牛フィレ・フィナンシエールを理解するにはポワレの方法、ガルニチュール・フィナンシエールとソース・フィナンシエールのレシピの3つを頭に入れておく必要があるわけだ。しかもガルニチュール・フィナンシエールにはクネルを作る必要があり、そのためにはファルスを用意しなくてはいけない。どちらも2. ガルニチュールの冒頭に書かれている。ソース・フィナンシエールはソース・マデールから作るのでそのレシピを見るとドゥミグラスがベースになっている。ドゥミグラスはエスパニョルをデプイエ(きれいに澄ませる作業)するものだから、エスパニョルのレシピも見なくては。
という具合にレシピの数珠つなぎ現象が起きている。わずか数行のレシピだが、理解するために必要な項目を全部読むとそこそこの分量だ。紙媒体の本ならしおりをはさむとか付箋紙を貼りまくってページを言ったり来たりしながら読むことになる。それは電子書籍もおなじ。電子書籍なら読む量が減るなんてうまい話はない。
ただ、原書にしろ50年以上そのまま放置されてきた自称翻訳書にしろ索引が使いにくい(というかはっきりいって使い物にならない)から探すのが大変。本全体の構成が頭に入っていて慣れてしまえばそこそこのスピードで目的のページを開けるというだけのことだ。
これ、初学者とかあんまりこういう本を使い慣れていないひとにはものすごく敷居が高いと思う。途中で嫌になっちゃうね。きっと。
で結局、参照すべきページ、レシピを探すのが手間で「うろ覚え」や雰囲気でなんとなくわかった気になっちゃうかわかったことにしちゃう。エスコフィエあるあるだね。そういう料理人さん結構多いんじゃない? 結果として思い違いや誤解をしてしまうことになる。なんちゃってフランス料理とか自称フランス料理はこうして生まれるわけだ。
そこで朗報。EPUBベースの電子書籍はリンク機能が使える。タップすれば見るべきページに飛ぶわけ。ページを捲って探す必要はない。あとはブックマーク(しおり)などをうまく使いながら紙の本とおなじように読めばいい。
アップルブックスの場合、五島訳エスコフィエ『料理の手引き』ではリンクの文字色を変えてあるから見ればわかるはず。
リンクを貼るのは事実上手作業。用語集に収録した語句もリンクにしているので総数16,000以上。HTMLでリンクを貼る作業をしたことがあれば、途方もない数だと実感できるかも(実際にはmarkdown形式という書き方をしているのでちょっと違うんだが)。
そんなわけで、正確な訳文、充実した訳注、豊富な内部リンクを実現するために途方も無い作業をしたわけです。単純作業も含まれるけどそれなり以上の語学力とパソコンのスキルがないとできない。電子書籍ならではというか電子書籍でないと実現できない機能を限界まで盛り込んだ労作です。金額以上の価値があると断言します。(© 2023 Manabu GOTO)
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五島訳エスコフィエ『料理の手引き』のすごいところ……(1) 訳注がすごい
本には注釈というものが付いていることがある。本文中の語に番号や記号が振ってあって、欄外とか巻末に対応する記号とその説明や補足が書いてあるやつ。中学校あたりの歴史の教科書なんかで見たこともあるだろう。
この注釈、紙媒体の場合にはページの下に配置する(脚注)か章や本全体の最後にまとめる(後注)のが一般的だ。電子書籍の場合には注番号をタップしたら該当の説明部分にジャンプするか吹き出しみたくポップアップさせることも可能で、アップルブックスの場合には後者のポップアップになっている(サンプルファイルの場合は吹き出しにならないはず)。
こういう注釈がついた本というのはたいていがひどく真面目で堅苦しく、難しいものだったりする。注を見ること自体が面倒、ウザいというひとも多いだろう。だからあんまり好まれないみたいだ。そういう意味では、アップルブックスの吹き出し方式は比較的いいソリューションだと思う。
さて、翻訳者がつけた注釈を訳注という。エスコフィエ『料理の手引き』の場合、どんなに上手にフランス語を日本語に訳したとしても説明抜きじゃとうてい理解できない語句、表現が山ほどある。とりわけ料理名(に使われている人名などの固有名詞)がわからないだろう。ほとんど全部の説明を訳注にしている。〇〇を参照というのも含めてのべ4,000くらいだ。〇〇を参照というのをのぞいた訳注つまりは説明文の実数を大雑把に数えてみたら約2,200。『料理の手引き』本文のレシピ総数が5,000をちょっと超えるくらい(数え方によって変わるからいちがいには言えない)だ。
いくつか訳注の例をあげよう。ソース・ゴダール、ガルニチュール・ゴダールというのがある。通常はソースとガルニチュールをセットにする。これは18世紀に徴税官(フィナンシエ)の役職にあったクロード・ゴダール・ドクールという人物の名を冠したもの(ガルニチュール・ゴダールはガルニチュール・フィナンシエールのバリエーションみたいなもの)。
ソース・グリビッシュは語源こそはっきりしないものの、19世紀末にはレムラードの一種として知られていてプルーストの長編小説『失われた時を求めて』の最初のほうで言及されている、とか。
あるいはこういうマイナーな事項じゃなくて、トゥルヌド・ロッシーニのロッシーニが19世紀の食通で晩年はレストラン経営までしたオペラ作曲家のことだとか、そういう有名どころも訳注にまとめてある。
こういうのが2,000以上ある。これとは別に、巻末に基本用語集としてまとめたものがある。もう、五島訳『料理の手引き』の本体は訳注だと言ってしまっていいかもしれない。五島訳は本文と訳注、用語集だけで『料理の手引き』を全部理解できるようになっている。つまり訳書と参考書(解説書)をひとつにまとめてあるようなものだ。
当然ながらフランス語原書ではこれらの訳注を利用できない。そのうち何割かはフランス語の文献、資料を見ないとわからない(日本語で解説している文献、資料がない)なかなか大変な状況だ。それもこれもどうしようもない自称翻訳書をとくに問題視せず半世紀以上放置してきたツケだろう。(© 2023 Manabu GOTO)
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間違いだらけを半世紀以上放置するって……
『ゲームの歴史』(講談社、2022年)という本の内容が誤りだらけだという指摘を受け、出版社が販売中止にしたという話題は記憶にあたらしい。書店やすでに購入した人からの返品も受け付けたというのだから、社会の公器たる出版社の矜持と一連の流れに見られた自浄作用をほんとうに清々しく思った。
間違いだらけの内容でなんと半世紀以上もそのまま販売され続けている料理書がある。S出版社の『エスコフィエ フランス料理』だ。August Escoffier, Le guide culinaire, 1903-1921. の翻訳書ということになっている。『なっている』と書いたのは翻訳と言うにはあまりに不誠実なものだからだ。S出版社には雑誌連載をやらせてもらったし、フランス語校閲の仕事をわずかながらもらっていたからいろいろ「忖度」してきたわけだが、もはやそんな必要もあるまい。フランス語校閲の仕事も事実上切られちゃったし。料理、飲食業界での僕の影響力なんてゼロなんだから歯に衣着せぬ物言いをしたってどうということもないはずだ。
かつて雑誌連載をやらせてもらっていた頃に、エスコフィエの新訳をS出版社に出してもらおうとしたことがある。『エスコフィエ フランス料理』の重大かつクリティカルな誤訳をリストアップして編集さんに渡した。会議で「エスコフィエの新訳はやらない」結論になったという。営利事業だからその結論を外部の者が覆すことはできない。だからそこでおしまい。僕は「残念だけど仕方ないですね」としか言えなかった。フランス語校閲の仕事がもらえなくなると困るし、なにしろ料理本出版の権威、一流出版社と評価されているところに真っ向から喧嘩を売るのは在野の人間にあまりに荷が重いし不利だ。
だけど『エスコフィエ フランス料理』はもはや事実上「古本」つまり中古でしか流通していないとみなしてよさそうだからこういう批判をしたってS出版社の事業にはなんの影響もないと思う。だいたい僕の言うことなんてごまめの歯ぎしりだしね。
『エスコフィエ フランス料理』はとにかく誤訳が多い。数でいえば数百じゃすまないんじゃないかとさえ思う。なにしろ料理人さんたちが口を揃えて「理解できない」「翻訳がゴミ」といっていたくらいだ。印象深い例をひとつあげると、ベシャメルソースのレシピ。うかつに本文を引用すると文句言われるかもしれない(昨今は著作権法における引用の扱いがおかしいと思えるケースも多いからいらぬ火種は避けたい)のでどうしても見てみたいなら図書館に行くかメルカリあたりでゲットするといいだろう。意味が通らないところはほぼ確実に誤訳だ。ほかにもたとえばカトリックの小斎(肉断ち)の場合の作り方に言及しているところ、「絶対に脂肪を含んでいると具合が悪い」みたくやってる。それじゃ意味が通らないんだよね。だいたい小斎なんて西ヨーロッパ文化を学ぶなら学部生レベルで知ってなきゃおかしい基本事項でしょうに。
さらには鴨のポワレを「あひるのフライパン焼き」としていたり。『あひる』はいいんですよ。正しい。野生でないカナールはまぎれもなく「家鴨」だから。問題はポワレ。エスコフィエのポワレはいまのポワレとまったく意味が違っていて、鍋底に香味野菜(マティニョン)を敷き詰めて肉を入れ、密閉して加熱すること。注釈をつけないとわからないレベル。あるいは薄くシート状にスライスした豚背脂のことを「ベーコン」とやっちゃってたり。
『エスコフィエ フランス料理』ではこういうのが山のように出てくる。そもそも4つある序文のうち最初と最後をなんか適当に合成したみたいなわけのわからんものだけ序文としているのを見た時点で、誠意ある翻訳でないことくらいわかりそうなものだ。本当に不誠実というか、期限までに納品すりゃいいんでしょ的な実務翻訳の雰囲気を感じる(僕自身それなりの期間実務翻訳をしていたからわかる)。
エスコフィエの原書はフランス料理とそれをベースとして展開した西洋料理、ガストロノミーの基本文献なのにその「日本語訳」がまったくのトンデモ本だったわけで、よくもまぁ業界が崩壊せず栄華を築いてきたものだと皮肉を込めて褒め称えたくなる。なにしろ50年以上放置されていたその問題意識のなさはものすごいと思う。そう、ここが最大の批判したいポイント。誤訳があるのはしょうがないとしても、S出版社が長年に渡ってそれを放置し、読み手(料理関係者)もまるきり問題を認識してこなかったこと。
翻訳は「更新」されるべきもので「新訳」はいくらあってもいい。僕は常識だと思っていたんだけど、どうやら世間というか料理関係ではそんなことはないらしい。
その結果なのだろう、もはやエスコフィエを学ぶ、読む必要すら認識していない料理人さんがほとんどになってしまったようだ。エスコフィエ『料理の手引き』アップルブックス版を出して、「必要なら買って読むだろう」とのんびりしていたら誰も興味すら持たない現状を知って愕然としているところだ。
『エスコフィエ フランス料理』は読んでもわからない(誤訳だらけだから当然)→古いものだからわからないのだろう→エスコフィエは古い→エスコフィエなんてもはや気にする必要すらない過去の遺物(イマココ)というのが逆らいようのない大きな流れだろうか。悪いのはエスコフィエじゃなくて翻訳なのに……
いまだにS出版社のを後生大事に飾っているひとに強く伝えたい。「それ間違いだらけのインチキ本だから捨てたほうがいいですよ」と。正統派のフランス料理とかクラシックとかエスコフィエの料理とか標榜する料理人さんならなおさら。
アップルブックスで五島訳エスコフィエ『料理の手引き』を読んでください。価格のことで文句言う人がいるかも知れないけど、専門書だから経費、公費で買うたぐいのものだし、あんまりにも需要が縮小した結果としての価格。その需要を縮小させた原因が料理関係者の側にもあることは理解してほしい。(© 2023 Manabu GOTO)
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1900年ごろの下っぱキュイジニエの月給は45フランくらい
(前回のつづき)
Emilie TUZ, L’apparition des restaurants de luxe dans les alpes-maritimes (1860-1914). (エミリー・テュス『アルプマリティム地域圏における高級レストランの誕生』)という、ニース大学に提出された(らしい)メトリーズ(修士)論文の要約PDFファイルを見ると、1900年ごろのニースの料理人の月給は45フランくらいからだったと繰り返し書かれている。
メトリーズ課程だからだろうか、残念なことにタイトルページに提出大学名も年月日もなければ、合否の結果も書かれていない。とはいえとてもよく調べてあって、基本的な文献もしっかり押さえてあるから参考にするには充分だろう。
当時の若い料理人の下宿の家賃が18〜20フランつまり月給の半分ちかくだったこととか、ある料理人の給与明細を13年にわたって調べると月給45フランからスタートして、13年後には225フランまで昇給していたという夢のような出世のケースまで描かれている。
さて、エスコフィエである。『料理の手引き』初版から第三版の価格12フランとコミ(ヒラの料理人)のスタート時の月給45フランで比べてみると、この本が月給の2割弱(17.8%)だったことがわかる。
エスコフィエのいう「若い料理人諸君に買える価格」とはいちばん下っぱの料理人の月給の2割ということだ。これについていろんな意見はあるだろうが、いくつもの超高級ホテルを統括する総料理長の感覚が街場の若い料理人と違っても仕方あるまい。
飲食業界関係の方ならいまの日本の場合と比較してどうなのか即座にわかるだろう。それから、前回書いた「賃金ベースだと1フラン=5,000〜6,000円」というのもそれなりに妥当な数字と納得できると思う。そんなこともあってこの記事でも具体的に書こうかと飲食関係の求人情報をいくつか見たのだが、知人の店が上の方でヒットしたのでやめておくことにした。興味があったらググって計算してみていただきたい。(つづく)