牛肉よりも鶏肉が人気という記事をネットニュースで見かけた。

https://news.yahoo.co.jp/articles/7d3b5e02579a4a3375195cfcdcf8ded7adc367fd

おなじような記事はほかにたくさんあるから、そういうトレンドなんだろう。日本では鶏肉というとなによりもまず唐揚げが好まれるみたいだ。それももっぱらもも肉。鶏胸肉は人気がないのか重量あたりの単価はずっと安い。近代日本ではながらく牛・豚・鶏の順で格付けされてきたから、正肉としては鶏胸肉はほぼ最下位ということになる。

それをあたりまえと思っているひとに、中世から近世(あるいは近代初期)のフランスにおける食肉のランクは鳥類のほうが牛・豚・羊のような獣肉よりずっと高かったというと驚かれるだろう。天により近いところにいる鳥類が地面にしばりつけられたように生きている獣より高等(上等)のは、神のいる天上界と人間などの地上界を対比する垂直的世界観のあらわれのひとつだ。

しかも、まるごとローストした鶏を宴席などで客に供する場合はもっぱら胸肉だけだった、つまり胸肉以外はあまり価値のないものとされたなんてまるで信じてもらえないかもしれない。鶏もも肉をあまり評価しなかったのが世界観にもとづくものなのかたんに食材としておいしくないと感じていたかはわからない。

エスコフィエ『料理の手引き』ではグルーズ(雷鳥の仲間)のもも肉は匂いがきついから使うなと書かれている。これは食材としておいしくないからというまことに素直で合理的な理由だと思う。べつにこの注意書きをきっちり守る必要なんかなくて、おいしいと思うなら食べればいい、食べさせればいい。おいしさの基準というのはその文化圏における慣習的な要素がかなりある。皆がおいしいと思ってるからおいしい、昔からおいしいと思って食べてきたからおいしい。そういうものだ。

グルーズのもも肉については、フランス料理店を営んでいる知人によると、いま日本で秋に手にはいるスコットランド産はフランスで食べたものに比べると格段に匂いが弱いらしい。猟鳥というかジビエは獲れた場所の自然環境やら獲ったあとの処理、保管(熟成)さらに調理まで味を左右されるファクターが多いから、おいしいと思うならエスコフィエにどう書いてあろうと自信をもって食材として大切にあつかえばいい。

さて、ソース・シュプレームというのがある。かんたんにいうと鶏のヴルテに生クリームが入ったものだ。チキンベースの生クリーム入りホワイトソース。シュプレームsuprêmemeは辞書をひくと「至高の」とあるから至高のソースの意味だなどと勘違いするむきもあるかもしれない。いや、それだってかならずしも間違いじゃないんだが、裏付けになる知識がないと「悪意のないデマ」になりかねない。シュプレームには名詞として「鶏胸肉(とりわけささみ)とそれを主素材とした料理」の意味がある。これはとても大切な知識だ。覚えていて損はないと思う。

エスコフィエ『料理の手引き』でソース・シュプレームを検索するとヒットするほとんどが鶏料理だ。仔牛・豚・魚介のレシピも出てくるが全体からするとごくわずかだ。だからソース・シュプレームは鶏胸肉用のソースと定義できる。有名なブシェ(ヴォロヴァン)・レーヌは鶏肉じゃなくてリドヴォー(仔牛胸腺肉)じゃないかというひとがいるかもしれないが、エスコフィエでは鶏胸肉を使うことになっている。それが絶対正しいということじゃなく、エスコフィエの時代はそうだった、ということ。

料理なんてものは食べ手にとって文字通り生きる糧、固体としての生命を健康に維持するための栄養であっておいしければなおいい。こんにちの日本のような飽食の時代であればおいしいことこそが正義ともいえる。だから構成要素の置き換え(代用)、追加、省略などとても自由におこなわれる。結果的に自由なんだったらどうやってもいい、知識なんていらないじゃん、というひとがいたら気をつけたほうがいい。

昨今話題のAIだって大量のデータから抜きだしたものを組み合わせている。データがなければ何もできない、たんなる人工無能だ。人間のばあいは知識というデータがある。どんなことでも知らないよりは知っていたほうがいい。AIより人間が確実にすぐれている点は物事を理解することにある。ただ困ったことに人間は知らないことを理解できない。わずかな想像すらできない。そして中途半端な知識は悪意のないデマのもととなる。それは文化の断絶をもたらす。

まとめると

エスコフィエ『料理の手引き』電子書籍普及版での「シュプレーム」検索結果(一部)
エスコフィエ『料理の手引き』電子書籍普及版での「シュプレーム」検索結果(一部)
エスコフィエ『料理の手引き』電子書籍普及版での「シュプレーム」検索結果(一部)
エスコフィエ『料理の手引き』電子書籍普及版での「シュプレーム」検索結果(一部)

エスコフィエ『料理の手引き』電子書籍普及版 五島学訳 アップルブックス
https://books.apple.com/jp/book/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A8-%E6%96%99%E7%90%86%E3%81%AE%E6%89%8B%E5%BC%95%E3%81%8D-%E9%9B%BB%E5%AD%90%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E6%99%AE%E5%8F%8A%E7%89%88/id6477338159?l=ja&ls=1

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