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カテゴリー: フランス食文化史
いまさら訊けないパテのこと(2)……パテとテリーヌ
パテとテリーヌって何がどう違うの? 日本でパテドカンパーニュが流行った頃よく耳にした疑問だ。当時の日本では魚介のすり身に生クリームなどを加えて加熱したものをテリーヌといっていることが多かったから、肉をつかったものがパテで魚のはテリーヌと早合点していたひともいるかもしれない。
とはいえこの区別は定着しなかったらしい。2024年の時点で販売されているキャットフードには「やわらかパテ まぐろ」とか「やわらかパテ かつお」「やわらかパテ お肉・お魚ミックス」というのがあるらしい。肉魚どちらもありだ。もちろんテリーヌを謳ったキャットフードも存在するようで、ざっとググっただけだが「まぐろ・ささみ」とか「なめらかビーフ」「七面鳥」などがテリーヌとして売られている。いまどきのよそんちのお猫さまはなかなか舌が肥えってらっしゃると思わせてくれる。
https://kalkan.jp/products/adult/pouch-patty-maguro.html
すでに述べたように、お互いに理解しあえるなら料理名なんて自由にどうつけたっていい。けれどキャットフードの例をみるまでもなく、パテとテリーヌはあまりに混乱した使われかたがされてる印象だから辞書的な定義を確認しておくのは無駄じゃないだろう。
すでに述べたように小麦粉などを水や油脂で練った(捏ねた)もので肉や魚を包んで焼いたものをフランス料理では(もともとの意味での)パテという。このパテの中身つまり生地に包まれているほうはじつにいろいろで、塊肉だったり魚1尾まるごとだったり、味付けしたミンチ肉だったり、すり身(ペースト)だったりする。これを踏まえてエスコフィエ『料理の手引き』をみると「11. 冷製 ガランティーヌ・パテ・テリーヌ」に
テリーヌとはクルートなしのパテのこと
と簡潔に説明されている。ただこれは結果的にそうであるということであって歴史的経緯などははいっさい考慮されていないちょっと乱暴な定義だ。
同書の鶏の冷製のところにプラルド(肥鶏)のテリーヌというレシピがある。丸鶏のもも以外から骨をとりのぞいてフォワグラ、仔牛肉、鶏レバーのファルスグラタン(ペーストみたいなもの)、トリュフなどを腹に詰める。もとの丸鶏の形状になように閉じてシート状にした豚背脂で包みマティニョンと呼ばれる香味野菜ミックスとともに鍋に入れて蒸し焼きにする(このやりかたをエスコフィエではポワレと呼ぶ)。これをぴったりサイズの陶器の鍋(テリーヌはもともと陶器のこと)に入れてジュレ(ゼリー)を注いで冷やし固める、というものだ。
ちなみに1979年に書かれたモーパッサンの短編小説「脂肪の塊」に出てくる鶏2羽のテリーヌはこれの詰め物のグレードを落したエコノミー版みたいなのをイメージするとかなりちかいように思う。
豪華な料理だが、さきの「テリーヌとはクルートなしのパテ」という定義とあわせると「思ってたのとちがう」となりかねない。だから「ガランティーヌ・パテ・テリーヌ」のところのは「(以下に示す)テリーヌとはクルートなしのパテ」という具合に補って読んでやる必要がある。くどいようだがパテとは小麦粉などを水や油脂で練った(捏ねた)生地で包んで焼いたもの、だからだ。
いっぽう、パテドカンパーニュのように生地で包まないものもパテの名を冠することがある。マルティニック料理として知られるパテアンポpâté en potにいたってはスープ(液体料理)だ(じつは「タイユヴァン」にパテアンポの記述があり、生地をつかわない料理だからフランス語の料理名としてはかなり古いものだ)。
パテドカンパーニュは豚肉と豚レバーのミンチに細かく刻んだ豚背脂などを混ぜ込んで味付けし、テリーヌ型などに詰めてオーブンで蒸し焼きにしたもの。型の内側に薄い豚背脂のシートを貼る(型から出したときに豚背脂で包まれている見た目になる)場合もあるが、生地じゃないからやっぱりパテの条件からはずれる。
そもそもパテクルート(パテアンクルート)という名称だっておかしい、パテにしたパテ、パイ包み焼きにしたパイ包み、頭痛が痛い、重複表現(重言)にみえる。パテクルートやパテドカンパーニュのパテと呼ぶのはシャルキュトリーcharcuterie用語由来だという。シャルキュトリーとは豚肉加工品のこと。
シャルキュトリー、豚肉加工業者は肉屋(ブシュリーboucherie)分離するかたちで同業者組合が結成され、業種として確立した。業種ごとの権利保護を目的とした規制があった時代だからシャルキュトリーではパテを作って販売することができなかった。パテを製造販売できるのはパティシエだけだった。
すでに述べたようにフランス語でパット(パート)という。このパットを使った料理およびそれを製造販売する店をパティスリーと総称し、パティスリー職人(料理人)をパティシエといった。パティスリはオーブンをつかってパテやトゥルト、そのほか甘い菓子もふくめたパティスリーを製造販売していたが、ローストrôtiの調理は許されていなかった。ローストはロティスールがおこなう調理だったからだ。そんなわけで肉屋(ブシェ)もロティスールもパティシエもシャルキュティエも同業者組合があって権利保護されて棲みわけていた。王侯貴族や大ブルジョワ、教会が宴席の料理を外注することがよくあり、16世紀カトリーヌ・ド・メディシスを主賓としたあるパーティーの料理発注記録をみると、肉料理のリストが2種類あり、ひとつはロティスールとパティシエそれぞれに注文していたことがわかる。
そんなわけでシャルキュトリーではオーブンを使ったパテを作ることができなかった。ただ、時代がずっと下って近代になるとトレトゥール(惣菜・仕出し屋)が台頭してくる。トレトゥールはシャルキュティエと守備範囲が重なるからかシャルキュトリーの伝統をひきついでいる。いまでもシャルキュトリ・トレトゥールなどとまとめて看板をかかげていたりする。
どういうわけかシャルキュトリーではパテの中の詰め物(ファルスfarce)のうちある種のものをパテと呼んでいたらしい。それがパテドカンパーニュ。カンパーニュcampagneは田舎のことだから田舎風パテのこと。生地で包んで焼いたものはパテアンクルート(いまでいうパテクルート)、ということみたいだ。いまやパテクルートは世界選手権が開催されているくらいだから調べればその成立についてもきちっとした説明がきっとあるだろうことに期待。(つづく)(©2024 lespoucesverts Manabu GOTO)
いまさら訊けないパテのこと(1)
みんな大好きビーフ・ウェリントン、イギリス料理の代表的なレパートリーのひとつだ。日本では伝統的フランス料理だと思ってるひともいるみたいだが、日本語のウィキペディアをみてもちゃんとイギリス料理と書いてあるので妙に安心した(2024年2月閲覧)。
ビーフ・ウェリントンはいろんなバリエーションがあるみたいだが、基本的にはこんな感じだろう。牛フィレ肉のブロックを周囲にシャンピニョン・デュクセルを厚く塗り、折りパイ生地で包んで焼く。フォワグラやトリュフを射込んだりもする。
この料理名が記録にのこされるようになって百年以上だし、高級料理におけるフランスとイギリスの境界はなんとも曖昧なところがあるから、声高に「ビーフ・ウェリントンはフランス料理じゃない!」などと主張する必要はない。だいたいの食べ手にとってはフランス料理だろうとイギリス料理だろうとおいしければどちらでもいいだろう。それにフランスでもよく知られた料理だし、フランス語で作り方を解説・実演しているYoutube動画も多い。
それはともかく、ビーフ・ウェリントンはフランス語だと通常boeuf Wellingtonと表記するが、すこし詳しく書くとfilet de boeuf en croûte Wellingtonとなる。生地で包んで焼いた牛フィレ・ウェリントンということ。伝説的とさえいえるボキューズのすずきのパイ包み焼きはbar ou loup en croûte。
そう、パテクルートpâté croûteのクルートだ。じゃあクルートがパイ包み焼きという意味かというとそこまで単純じゃない。アラン・パサールのスペシャリテ、ビーツの塩釜焼きはbetterave en croûte de selだし、パンのクラスト(食パンなら耳、フランスパンなら外側のこんがり焼けた皮) もクルートという。クルートにパイの意味はない(というかパイに限定されない)。クルートはそもそも「殻」のことだ。
ならばパイとは何か? 日本語のパイとイギリス料理のpieはかならずしもイコールじゃない。プリンとpuddingの代表的イメージがまるで違うのとおなじだ。日本語のパイは通常、小麦粉とバターを練った生地を焼いたものをいう。かつてはアップルパイとかナポレオンパイ(ミルフィーユ、ミルフイユ)のような甘いものだけを指した(昔はピザのことをピザパイともいったがとりあえずこれは除外しておこう)。
英語にしろフランス語にしろ機械的に日本語に翻訳できるものではなく、それぞれの言語の背景にある文化について知識・理解が必要なことは、AI翻訳があいかわらずポンコツなことからもわかるだろう。すくなくとも食や文学についてAIはまったく人間にかなわないのが2024年の現状だ。
さて、イギリス料理にビーフステークパイbeefsteak pieというのがある。すこし高さのある皿(パイ皿)に牛肉と水を入れて生地をかぶせて焼いたものだ。底と側面にも生地をつかう場合もある。グフェ『パティスリーの本』(1873)ではbeefsteak-pie pâté de boeuf à l’anglaiseとなっている。そう、フランス語というかフランス料理の文脈に置くと、イギリス風牛肉のパテとなる。ただしフランス語のpâtéはpieとイコールじゃない。
フランス語のpâtéをモンタニェ『ラルース・ガストロノミック』初版(1937)でひくと「肉や魚を生地(フォンセ生地やフイユタージュなど)で包んでオーブンで焼いたもの」と説明されている。ネットで利用できる最大のフランス語辞典TLFiも似たような感じで、さらにcroûteの同義語としている。
https://www.cnrtl.fr/definition/p%C3%A2t%C3%A9
そんなわけでビーフ・ウェリントンもすずきのパイ包み焼きもパテ(のようなもの)といってよさそうだ。ただ、通常はパテと呼ばないだけのこと。これはけっこう大事なことで、料理名なんてものは考えたひと、調理したひと、食べるひとが自分の理解で名づけてそれが定着するのだから基本的に自由だけど、言葉である以上はお互いに通じないといけない。レストランなどの場合、食べ手が料理名をみて期待あるいは予想して注文したものとまるきりかけはなれた料理が出てきたらまことに具合がわるい。そういう意味では日本でパテというと意味が限定的になったり英語由来のパティと混同される可能性もあるから注意がひつようだ。
中世のパテにはどんなものがあったか。14世紀に成立したといわれる「タイユヴァン」は写本、版によって異動が大きいからジェローム・ピション、ジョルジュ・ヴィケール編の研究版(1892)の索引から書き写す。
アローズ(アロサ にしんの近縁種)のパテ、アンギーユ(ヨーロッパうなぎ)のパテ、牛肉のパテ、牛肉のパテと熱いソース、ブレーム(鯉科の淡水魚)のパテ、四旬節のパテ、鹿のパテ、シャポン(去勢鶏)のパテ、仔山羊のパテ、あなごのパテ、うさぎのパテ、森鳩のパテ、羊ジゴ(もも)のパテ、グロンダン(カナガシラの近縁種)のパテ、去勢若鶏のパテ、ヤツメウナギのパテ、野うさぎのパテ、ロレーヌ(地方)のパテ、メルル(ツグミ)とモヴェ(雲雀)のパテ、モワル(牛骨髄)のパテ、シブール(葱)入り羊のパテ、驢馬のパテ、ボラのパテ、雛鵞鳥のパテ、雀のパテ、ペルドリ(山うずら)のパテ、洋梨のパテ、鶏のパテ ソース・ロベール、鳩のパテ、ルジェ(かさごの近縁種)のパテ、猪のパテ、パテと温かいソース、サーモンのパテ、トラウトのパテ、テュルボ(ひらめの近縁種)のパテ、雌牛のパテ、仔牛のパテ、ノルウェー風パテ
パテとよく似たものにトゥルトtourteがある。こんにちではトゥルトから分化したタルトtarteのほうがよく知られているがもとはおなじだ。「タイユヴァン」の上記研究版ではタルトルtartreと表記されている。パテとおなじく索引から列挙してみる(いまのタルトのイメージに引きずられないためにトゥルトと書く)。
ブルボン風トゥルト、生地で覆った一般的なトゥルト、生地で覆わないトゥルト、ジャコバン風トゥルト、詰め物たっぷりのジャコバン風トゥルト、りんごのトゥルト、四旬節のトゥルト、両面トゥルト
ほかにタルムーズtalmouseとかリソールrissoleなど小麦粉を混ねた生地をつかう料理はいくつか言及されているが「タイユヴァン」では圧倒的にパテが多い。
パテという語はパット(pâteパートとも)からの派生語だ。そもそも小麦粉などを水や油脂で練った(あるいは混ねた)生地をパットという。イタリアのパスタもフランス語でパットいうのはこのためだ。そして、小麦粉などを水や油脂で練った(あるいは混ねた)生地で食材を包んで焼いたものをパテと呼んだわけだ。そして、この生地をあつかう料理をパティスリ、それそ作る料理人(職人)あるいはパティスリの作り方の本をパティシエと呼んだ。いまではパティシエは菓子職人の意味でしか使われなくなってしまったが、広い意味のほうのパティシエは19世紀後半まで使われた。まぎれもなくパテはパティスリだったわけだ。(つづく)(©2024 lespoucesverts Manabu GOTO)
フィナンシエ今昔
ヴォロヴァン・フィナンシエールvol-au-vent à la financièreという料理がある。雑な説明をすると、円形にカットした折りパイ生地を焼いて中をくりぬき太短い筒状にしたものに加熱調理してソースであえた鶏とさか、鶏ロニョン(腎臓ではない)、リドヴォー(仔牛胸腺肉)、クネル、トリュフを詰めたものだ。この詰め物のことをガルニチュール・フィナンシエールgarniture à la financièreという。カレームはラグー・フィナンシエールと呼んだ(エスコフィエではソースとガルニチュール別々に記述されている)。
このフィナンシエールはフランス革命以前の徴税官フィナンシエfinancierのこと。当然ながら貴族の役職だ。国王の代理として税をあつめる権利をもっているわけだから俗説では私服を肥やしまくっていたともいう。裕福だと美食に耽り、珍味佳肴を好む者が目立つはいつの世もおなじか。ブリヤサヴァランは「徴税官は美食の勇者だ」などと書いている。鶏とさか、鶏ロニョンというと日本の庶民感覚ではゲテモノ呼ばわりしたくもなるが、なにしろ雄鶏はフランスを象徴する(ルコックといえばサッカーファンはわかるだろう)。いろんな象徴、意味を背負った高級食材だ。
ガルニチュール・フィナンシエールとよく似たものにガルニチュール・ゴダールというのがある。構成するパーツは似ているがソースが異なる。フィナンシエールがトリュフエッセンス入りのソース・マデールなのに対して、こちらは白ワインとマッシュルームを用いたソースだ。18世紀の作家としても知られる徴税官クロード・ゴダール・ドクールの名を冠したものだ。
これらのガルニチュールはヴォロヴァンに詰めるほか、大皿(プラトー)に盛る大きな塊肉や丸鶏の料理に添える(ガルニチュール)。もっとも21世紀の現代にはそういう大皿料理はほとんど作られることもないようだが、19世紀には宴席の華として壮麗な盛り付けで供されたという。だから忘れられた料理のひとつといってもいいかもしれない。
いっぽう、イタリア料理にはフィナンツィエーラというのが残っている。地域別にイタリア料理を網羅した大著『リチェッテ・レジオナーリ・イタリアーネ(1967)にはピエモンテ風フィナンツィエーラとして、鶏とさかと鶏レバー、仔牛胸腺肉、仔牛背肉、牛フィレなどを材料としたラグー(煮込み)が収録されている。あきらかにフランス料理に起源がある。鶏ロニョン(腎臓ではない)やクネルを使わなかったり、パスタを合わせるようサジェストしてあるなどいろいろ興味深い。材料など細かい変遷はあっても現代でも作られているようだ。
これらとはまったく別に、フィナンシエという焼き菓子がある。アーモンド、砂糖、小麦粉、卵白、バターがおもな材料で、よくあるのは金(ゴールド)の延べ棒みたいな形状だ。日本ではこちらのほうがよっぽど知られているだろう。上で書いた料理のガルニチュール・フィナンシエールとはまったく関係がない。どうやらピエール・ラカン『新しいパティスリーと氷菓』(1867)がレシピとしてはもっとも古いもののようだ。おなじ著者による『パティスリー歴史地理覚書』(1900)という本によるとサンドニ通りに店を構えていたラーヌLasnesという職人が最初のようだ。証券取引所の近くに店があったから顧客もそこに出入りする金融マンが多く、それにあやかってなのか「金融家」の意味でフィナンシエと名づけたという。だからゴールドのインゴットを模した形状なんだと。なんか露骨な気もしないではないが、茶会でのちょっとした話題として重宝されそうな由来だ。たしかに19世紀になってしばらくするとフィナンシエという語の古い、つまり革命以前の「徴税官」の意味・用法は忘れられつつあり、こんにちの「金融家」の意味になっていたろう(19世紀前半のブリヤサヴァランでもそういう用法は多い)。いかにもありそうな話だ。
そもそもフィナンシエと似た焼き菓子はヴィスタンディーヌとかフリアンなどほかにも存在するわけで、フィナンシエがフィナンシエであるという最大のポイントはやっぱり形状とその名前なんだろう。言葉と見た目の意匠はあなどれない。
ちなみにこの文でフィナンシエ、フィナンシエールの表記が混在しているのはフランス語の男性名詞financierと、それが形容詞化してさらに女性形で再度名詞化したfinancièreを律儀にカタカナ化したにすぎない。フランス語を学ぶなら理解すべき事柄だけどそうでないなら気にするほどのことでもない。
https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k313879z?rk=107296;4#
https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k940508c?rk=42918;4#
https://fr.wikipedia.org/wiki/Financier_(p%C3%A2tisserie)
リエーヴル・ロワイヤル
リエーヴル・ロワイヤルlièvre à la royale(野うさぎのロワイヤル)という料理がある。フランスガストロノミー最高峰の料理とさえ言われる。フランス料理のクラシックのひとつだ。そのことに異論はない。
この料理名は大きく分けて2種類のレシピがある。ひとつは切り分けた野うさぎの肉を原形がなくなるまで煮込んだもの。大雑把にいうとシヴェの一種。とりわけ有名なのは19世紀末から20世紀初頭にかけて新聞・雑誌でレシピが紹介されたエシャロット(玉ねぎの近縁種)とにんにくを効かせたアリスティッド・クトー風とよばれるもの。クトーはジャーナリスト出身の政治家だからクトー議員風みたく表現されることもある。ずっと後になってポール・ボキューズの調理で注目をあつめたという。
もうひとつは野うさぎを開いて骨を取り除き一枚のシート状にする。フォワグラなどを巻き込んで太い棒状に包み(バロティーヌ)、野うさぎの血や赤ワインなどを加えた煮汁で長時間加熱する(ブレゼ)。切り分けて提供するから、1人分は円盤形。こんにちの日本ではこのタイプのほうが好まれている印象がある。もっとも古いレシピのひとつはアリバブ(アンリ・バビンスキ)のだろう(こんかい参照したのは1928年の第五版)。1937年刊行のモンタニェ「ラルース・ガストロノミック」初版では「詰め物をしたリエーヴル、ペリゴール風、別名ロワイヤル」Lièvre farci à la Périgourdine ou à la Royaleとして収録されている。
ちなみにアリバブもモンタニェも上記クトー風についてはあまりいい言及はしていない(というかにべもなく言下に否定している)。
注意すべきは、エスコフィエやグフェのような19世紀料理の本でどちらの作り方にも言及がまったくないことだ。もちろん18世紀以前にもない(否定文の証明は理論的にも現実的にも困難だが)。クトー風にしろペリゴール風にしろ技法としてはとりたてて特別なものではないから似たようなレシピは数多くある。だからといって「この料理の起源はルイ十四世の宮廷まで遡る」とか「歯が悪かった王のために云々」とするのはちょっとやりすぎのように感じる。シヴェについては17世紀どころか中世に遡れるわけだし、アルフレッド・フランクラン(19世紀後半の歴史家)の「生活史」シリーズにエピソードくらい収録されていたっておかしくないだろうに(これを書くにあたってフランクランをぜんぶ読みかえしたわけじゃないから断言できないが)。
ある程度俯瞰していうなら、リエーヴル・ロワイヤルはすくなくとも19世紀末か20世紀初頭からフランス食文化のシーンに登場した比較的あたらしい料理名だ。もちろん原形となるものがあったろうし、文献ののこされていることが稀な地方料理としてとても古い可能性はある。でも、フランス料理の本流で存在感を示しはじめたのはボキューズ以後のことで、せいぜいがこの40年くらいのものだといっていいだろう。オープンしたての店舗も「老舗」になるように、おなじものが半世紀ちかく続けば伝統といっていいだろう。そういう意味でトラディショナルと呼ぶのはいい。ただ、40年そこらのものをこれぞフランス料理の伝統みたくいうのはちょっと大袈裟な気がする。
ある日突然、それまで知らなかった「伝統」があらわれることがある。記憶にあたらしいところでは「江戸しぐさ」なんかがそうだ。マナー講師というひとたちの言辞もそういうのが多い。ほとんどは根拠のない、もっともらしいでっちあげの「創作」だ。こういう創作のやっかいなところは相手を騙そうという悪意がないこと。あくまでも善意からのガセ、でまかせだ。かつて社会問題となった洗剤や寝具を使ったマルチ商法(とそれに類似するもの)にも似たところがある。
歴史とか伝統というのはあくまでも現在からみたものにすぎない。現在の自分(たち)にとって都合よく過去の事実を再編成するのはよくあることだ(史観にはそういう側面がかならずある)。でっちあげの類はその過去の事実さえしばしばいいかげんな扱いをしている。だからこそ、過去の事実をきちんと調べてじぶんで考えることが重要だと思う。
ロワイヤルこそないがエスコフィエでもグフェでもリエーヴルのレシピはたくさんある。それらを一顧だにせずロワイヤル一辺倒、猫も杓子もロワイヤルというのは、まぐろといえば握り鮨以外ないと思い込むにひとしい。
フランス語の形容詞ロワイヤルroyalは「王家の」という意味が代表的だ。ただ、フランス料理用語(料理名)のロワイヤルにその意味はあまり認められない。それどころか、フォワグラや野菜のピュレを混ぜ込んだ茶碗蒸しみたいなポタージュの浮き身(ガルニチュール)をロワイヤルと呼ぶくらいだ(この場合は名詞)。フランス王家なんて関係ないと思わざるを得ない。じっさい、レーヌ(王妃、女王)とかデュシェス(公爵夫人)、マルキーズ(侯爵夫人)などは料理名に組込まれたとたん、一般的な意味やニュアンス、コノテーションを失なってほぼ固有名詞と化す。
ちなみにポタージュに入れるロワイヤルはデュボワ『キュイジーヌ・クラシック』だとセヴィニェとかグザヴィエというように名称が版によって安定していない。言葉の意味としてその程度のものだ。
だいたい19世紀の第二帝政以降フランスは王国ではない。王侯貴族の家系はたしかに存続しているし、階級社会なのも事実だろう。民衆が上流階級への憧憬の念を抱くのも当然かもしれない。その文脈をふまえてリエーヴル・ロワイヤルという料理とその周辺を一歩さがったところから冷めた目でみると、かつて大自動車会社の社長が自らの誕生日パーティーをヴェルサイユ宮殿で盛大に開催したのと重なって映るような気がしてならない。(©2024 lespoucesverts Manabu GOTO)
餌と食事
ブリヤサヴァランの『美味礼賛』(味覚の生理学 Physiologie du goût, 1825)冒頭のアフォリズム(警句)のひとつに
Les animaux se repaissent ; l’homme mange ; l’homme d’esprit seul sait manger.
すべての動物は喰む。ひとも食べる。食事することを心得ているのは知的なひとだけ。というのがある。アフォリズム形式というのはニーチェや芥川龍之介が好んだ。古くはラ・ロシュフーコーの『箴言』(17世紀)が日本では有名だろうか。前後の文脈をとりはらった短文で読者(受け手)を感心させたり納得あるいは考察のきっかけを与えるものだから、いろんな解釈ができる。
このアフォリズムは3つの節(主語+動詞)から構成されている。ひとつめと2つめが対句、2つめと3つめも同様という二重構造になっている。
1. Les animaux se repaissent ; l’homme mange; すべての動物は喰うという行為をする。人間も食べるという行為をする。
2. l’homme mange ; l’homme d’esprit seul sait manger. 人間は食事をする。そのなかで知的な人間だけが食事をすることを心得ている。食べるという行為じたいはひとも獣もあまり変わらない。じぶんという個体の生命活動を維持するためにひつような栄養を摂取する行為だ(1)。ひとと獣のちがいは何か。知性があるかないか、思考があるかないか、という点だ(2)。
このアフォリズムでは動物と人間という対立項だけではなく、知的な人間とそれ以外(の人間および動物)という対立が示されていて、後者にむしろ重きがおかれている。大雑把にいってしまえば、知的エリートと呼ばれるひとびとのみが、食事を真の意味で愉しみ、味わうことができる、ということだ。
ここでさらっと「知的なひと」と訳したhomme d’espritという語句。ほかに「才知・機智に富んだひと」などの訳語もある。エスプリという語に日本人は過剰反応しやすいが、あまり深く考えずに「頭の切れる・賢いひと」くらいに理解したほうがいいように思う。ただ、そう訳すとたんにIQが高いだけみたいになってしまう気がしたから「知的な」を採用している。ちなみに、IQは知性の高さを示す数値ではない。IQについてはYoutubeなどに解説動画がたくさんある。
ちょっと乱暴だが、18世紀という啓蒙主義の時代においてhomme d’espritは啓蒙する側のひと、と理解してもいい。つまり頭が切れるということに知識の多寡や質、ものの考え方と態度も含まれていたわけで、それを全人格的に表現した言葉だろう。19世紀の小説などでhomme d’espritは「すごいひと・立派なひと・賢いひと」くらいに解釈されるケースも多い。
自分はただ食べるだけの側なのか、食事することを心得ている側なのか。結論をいってしまうと、答えは「本人のありよう次第」となろう。ただおいしいと感じるものを食べてよろこぶだけなら動物寄り。それを考察し、考えることも含めてたのしむ、味わい、場合によっては他者に伝えるなら後者ということになる。
日本人は食にうるさい国民性だという。ただ、うるさく言うにしても、自分(たちのコミュニティー)にとっておいしいと感じるかどうかの判断で止まってしまうことが多い。だけど動物だって選り好みする。ペースト状の猫の餌に、日本の多くの飼い猫が夢中になり、大ヒットしたことはよく知られている。虫だって選り好みする。野菜の種類によってつく虫がちがうのは常識だろう。だから「おいしい」という認知とそれにもとづく行動の変化(選択)は人間固有のものではない。
Youtubeでいろいろな食品製造工場や農場の動画をみていると、こんにちわれわれが日常的に食べているのがまさしく餌にほかならないと感じさせられることは多い。20世紀以降に発展著しかった食品工業とはまさに餌の大量生産プロセスだ。たとえば
それが悪いとは思わない。いいか悪いかはまったく別の問題だ。大量生産を否定して手作りならいいのか。手作りだって餌は餌だ。作り手と食べ手に知性と知識、考察がなければ餌のままだ。結局のところ、われわれ食べ手がどのように食とむきあうかの問題だろう。
蛇足になるが、ブリヤサヴァラン『美味礼賛』(味覚の生理学)は哲学書でも科学書でもない。おもしろ読み物的性格をもった雑文・エッセイ集だ。随所に真理(と思われること)をいったり、考えさせられる文章があるからとても味わい深く、知的な意味で「おもしろ読み物」となっている。スタンダールの『恋愛論』も似たような性格をもっている。『美味礼賛』を読んで、この知的・おもしろ読み物の「二匹目のどじょう」を狙ったのが小説家バルザックの最初のヒット作『結婚の生理学』という書物。両者のヒットにより、19世紀をとおして「○○の生理学」という本が数多く刊行されることとなった。その多くは「まるわかり○○」とか「おもしろ○○のすべて」くらいの性格の本である。こういう背景を無視して飲食関係者や自称美食家(食通)の多くがブリヤサヴァランとその著『美味礼賛』をありがたがっているのはなんとも滑稽に思える。(©2024 lespoucesverts Manabu GOTO)
ソース・シュプレームは鶏胸肉用
牛肉よりも鶏肉が人気という記事をネットニュースで見かけた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7d3b5e02579a4a3375195cfcdcf8ded7adc367fd
おなじような記事はほかにたくさんあるから、そういうトレンドなんだろう。日本では鶏肉というとなによりもまず唐揚げが好まれるみたいだ。それももっぱらもも肉。鶏胸肉は人気がないのか重量あたりの単価はずっと安い。近代日本ではながらく牛・豚・鶏の順で格付けされてきたから、正肉としては鶏胸肉はほぼ最下位ということになる。
それをあたりまえと思っているひとに、中世から近世(あるいは近代初期)のフランスにおける食肉のランクは鳥類のほうが牛・豚・羊のような獣肉よりずっと高かったというと驚かれるだろう。天により近いところにいる鳥類が地面にしばりつけられたように生きている獣より高等(上等)のは、神のいる天上界と人間などの地上界を対比する垂直的世界観のあらわれのひとつだ。
しかも、まるごとローストした鶏を宴席などで客に供する場合はもっぱら胸肉だけだった、つまり胸肉以外はあまり価値のないものとされたなんてまるで信じてもらえないかもしれない。鶏もも肉をあまり評価しなかったのが世界観にもとづくものなのかたんに食材としておいしくないと感じていたかはわからない。
エスコフィエ『料理の手引き』ではグルーズ(雷鳥の仲間)のもも肉は匂いがきついから使うなと書かれている。これは食材としておいしくないからというまことに素直で合理的な理由だと思う。べつにこの注意書きをきっちり守る必要なんかなくて、おいしいと思うなら食べればいい、食べさせればいい。おいしさの基準というのはその文化圏における慣習的な要素がかなりある。皆がおいしいと思ってるからおいしい、昔からおいしいと思って食べてきたからおいしい。そういうものだ。
グルーズのもも肉については、フランス料理店を営んでいる知人によると、いま日本で秋に手にはいるスコットランド産はフランスで食べたものに比べると格段に匂いが弱いらしい。猟鳥というかジビエは獲れた場所の自然環境やら獲ったあとの処理、保管(熟成)さらに調理まで味を左右されるファクターが多いから、おいしいと思うならエスコフィエにどう書いてあろうと自信をもって食材として大切にあつかえばいい。
さて、ソース・シュプレームというのがある。かんたんにいうと鶏のヴルテに生クリームが入ったものだ。チキンベースの生クリーム入りホワイトソース。シュプレームsuprêmeは辞書をひくと「至高の」とあるから至高のソースの意味だなどと勘違いするむきもあるかもしれない。いや、それだってかならずしも間違いじゃないんだが、裏付けになる知識がないと「悪意のないデマ」になりかねない。シュプレームには名詞として「鶏胸肉(とりわけささみ)とそれを主素材とした料理」の意味がある。これはとても大切な知識だ。覚えていて損はないと思う。
エスコフィエ『料理の手引き』でソース・シュプレームを検索するとヒットするほとんどが鶏料理だ。仔牛・豚・魚介のレシピも出てくるが全体からするとごくわずかだ。だからソース・シュプレームは鶏胸肉用のソースと定義できる。有名なブシェ(ヴォロヴァン)・レーヌは鶏肉じゃなくてリドヴォー(仔牛胸腺肉)じゃないかというひとがいるかもしれないが、エスコフィエでは鶏胸肉を使うことになっている。それが絶対正しいということじゃなく、エスコフィエの時代はそうだった、ということ。
料理なんてものは食べ手にとって文字通り生きる糧、固体としての生命を健康に維持するための栄養であっておいしければなおいい。こんにちの日本のような飽食の時代であればおいしいことこそが正義ともいえる。だから構成要素の置き換え(代用)、追加、省略などとても自由におこなわれる。結果的に自由なんだったらどうやってもいい、知識なんていらないじゃん、というひとがいたら気をつけたほうがいい。
昨今話題のAIだって大量のデータから抜きだしたものを組み合わせている。データがなければ何もできない、たんなる人工無能だ。人間のばあいは知識というデータがある。どんなことでも知らないよりは知っていたほうがいい。AIより人間が確実にすぐれている点は物事を理解することにある。ただ困ったことに人間は知らないことを理解できない。わずかな想像すらできない。そして中途半端な知識は悪意のないデマのもととなる。それは文化の断絶をもたらす。
まとめると
- 近世(あるいは近代初期)までのフランスの高級料理において、食材として鳥類が獣より格上だったのはフランス人の世界観にもとづく
- これと関連してフランス高級料理の文脈では鶏は胸肉こそがおいしい食材であり、もも肉はあまり評価されなかった
- 鶏胸肉はシュプレームと呼ばれた
- ソース・シュプレームは鶏胸肉用のソース
エスコフィエ『料理の手引き』電子書籍普及版での「シュプレーム」検索結果(一部) エスコフィエ『料理の手引き』電子書籍普及版での「シュプレーム」検索結果(一部) エスコフィエ『料理の手引き』電子書籍普及版 五島学訳 アップルブックス
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14世紀の食品偽装?
(メモ書き)
Poullaillier という語を DMF で調べていて興味深い用例を見つけたので、原典にあたってみる。DMF の見出し語は poulailler だが、poulaillier もおなじ語。中世フランス語の綴りは結構流動的というか不安定。
問題の用例は、1380年のフランス王家の出納簿。Comptes de l’hôtel des rois de France aux XIVe et XVe siècles, Mme Ve Jules Renouard, 1865, p. 9.
De Jehan Bienfait, poullaillier, pour une amende en quoy il avoit esté condampné envers le Roy par les maistres d’ostel, pour connins qu’il avoit pris et aidé à prandre en la garanne de Saint-Cloust, comté par Guillaume Brunel, marchant de toiles, qui avoit baillé touailles et nappes pour la despence de l’ostel, senz lectre. Rabattu de la somme dudit Guillaume 120l.p.
Somme pour recepte commune 1,880 l.p.
ジャン・ビアンフェなるプーライリエが、自分で穫った兎をサンクルー産兎であるかのように販売したと訴えられ、罰金を課されたということのようだ。
l.p. は livre parisis の略。リーヴルは通貨単位。1リーヴルは20スー。1スーは12ドゥニエ。1リーヴルは240ドゥニエ。パン1個の値段が基本的に1ドゥニエ。
食べ物が産地によって差別化されていることはべつに驚くことでもないだろう。16世紀ラブレーの小説にも、バイヨンヌのハムとかボローニャのソーセージへの言及がある。
さて、Poulaillier プーライリエの原義は「鶏を飼育し、販売する業者」なのだが、エティエンヌ・ボワローの政令によると、
Item, nul quelqu’il soit ne pourra acheter pour revendre poulaille, eufz, fromaiges, perdris, cognins, aigneaulx, chevreaulx, veaulx, sauvagines, ne autres vivres quelzconques, en la ville de Paris, s’ilz ne les achetent es places publicques et lieux ou les marchiez sont, et ont acoustumé a estre, et en plain marchié ; et ne les pourront les poulaillers ou regratiers acheter pour revendre, en la ville de Paris, se n’est après l’eure de midi sonnée a Nostre Dame de Paris (Mét. corp. Paris L., t.1, 1351, 21).
ということなので、鶏のほか、卵、チーズ、|山うずら《ペルドリ》、兎、仔羊、仔山羊、仔牛、野生の鳥獣も扱っていたようだ。
13世紀のブーダンノワール販売禁止令?
13世紀のパリ執政官エティエンヌ・ボワローによるさまざまな職種にかんする政令をぱらぱらと読んでいて、とても興味深い記述を見つけたので備忘のためアップしておく。キュイジニエ=ロティスールの項。
血で作ったソーセージ(ブーダン)を販売してはならない。さもなくば上記罰金の対象となる。これは危険な食べものだ。(Etienne Boileau, Réglemens sur les arts et métiers de Paris: rédigés au XIIIe siècle et connus sous le nom du Livre des métiers d’Etienne Boileau, 1837, p.177. Gallica)
「危険な」は原文 périlleuse。文字通り危険、デンジャーということだが、なぜ危険なのかは明記されていないのでいまのところわからない。食べものに携る職業にかんする政令には、古い料理や食材を売ってはいけないといった衛生面での規定も少なくないから、おそらくは食品衛生の問題か。
とはいえ、血で作るブーダン、こんにちの名称でブーダンノワールは、14世紀末の『ル・メナジエ・ド・パリ』でレシピの冒頭に掲げられているくらいポピュラーなもの。この禁止令はいつまで続いたのかも含め、調査が必要。
16世紀(6)
p.XXI(4)
プラティナは同時代人と比べてかなりまともな味覚の持ち主だったようだ1。香辛料の使用は適度であり、どんなに複雑なソースでも使うのは生姜とシナモン程度だ。レモンやオレンジの絞り汁、あるいはクローヴしか使わないこともある。この本に出ているモルタデッラ2はそこそこ美味しいだろう。「猟獣肉用ポワヴラード3」もさほど手を加えないでそのまま提供できそうだ。作者は「ローリエの葉でくるんで4串に刺した小鳥のローストに粉砂糖を振りかけたもの」を好む。だが、雀はまったく好まない。「雀は食べるには大きくて不味いし、消化に時間もかかる。なにより邪淫5を引き起こす」。シャルドヌレ6は雀よりもっと好まない。「食べ物として皿にのせるよりも、籠に入れて甘美な鳴き声を楽しんだ方がいいからだ」。また、カタローニャの料理を高く評価している。「彼らの料理に国民性がはっきり表れているから」だ。カタローニャの鶏のミローズ7や山うずらのソース添えなどはとても美味だと述べる。フランス語翻訳者は「我々フランス人はカタローニャをどんなに嫌っていてもこの料理を喜んで食べる。フランス人はカタローニャの料理は好きだが、カタローニャ民族は嫌いなのだ」と書き加えている。さて、海豚は中世に好んで用いられた食材で、マニーニというイタリア人が書いたレシピがある。プラティナの訳者デディエ・クリストルがそのレシピを再録し、とても面白い論考を加えている。