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カテゴリー: フランス食文化史
中世(14)
p.XIV(3)=p.XV(1)
ピション男爵による『ル・メナジエ・ド・パリ』校訂版には付録として、ド・ルーベ侯の料理人であったオタンなる人物が書き送ったとされる「肉、魚のいろいろなブルーエの作りかた」が収められている。トゥルヌソル1を加えて作る「桃の花のブルーエ2」のごときひどく珍妙なソースは別として、オタンはクレーム・キュイットのレシピ3もいくつか記しており、それらは覚えておくだけの価値があるものだ。
p.XV(2)
15世紀なると、デグモン家の料理長を勤めていたらしいタブロなる人物が(タイユヴァンとは別の)『ル・ヴィアンディエ』を著した。これは手稿本のまま出版されていない4。『メナジエ』の作者同様、タブロもタイユヴァンや『料理全書』から多くを借用していて、彼自身の調理がどんなものだったかを捉えることはできない。が、タブロは実に見事にレシピの途中に自身の考えを差し挟んでいる。それに、「タブロにこの本は完璧だと伝え給え。この書の作者と聖母マリアに栄えあれ。アヴェ・マリア!」などという無邪気な文言が末尾にあるのを見ると、ひどいブルゥエのレシピも許せなくもないという気分になる。
中世(13)
p.XIV(2)
オリジナルの手稿本(原注1)では、グリゼリディスの物語1、ジャン・ブリュイヤンによる富と貧困についての長詩の後に、とても念入りに書かれた料理のページが続く。これはタイユヴァンと『料理全書』が下敷になっている。老ブルジョワは先人のレシピに手を加え、若妻が使いやすいよう注釈をつけている。タイユヴァンとは砂糖に対する嗜好が違う2とはいえ、香辛料の使用については負けずとも劣らない。いくつか面白いこともしている。例えば、エクルヴィスと魚を油で揚げる(エクルヴィスのグラヴェ3)とか、「アルブゥラートル」なるチーズ入りタルトの両面を同時に焼こうと、料理が入っているフライパンの上に、火を起こした炭を入れたフライパンをのせる、など。とはいえ、このアマチュア料理人の姿は、あの時代の食道楽としてはそんなに馬鹿にしたものではないように思われる。彼はこう書いている。「兎は、冬は一週間くらい経ったものが美味しい。夏は4日ほどがいいが、日光に当たらないようにしてやること」。古代ローマの農学者テレンティウス・ウァロ4の著作にならい、「野兎の年齢は、尻尾の下の穴の数と年齢が同じだから、それを見れば分かる」と述べる。「鯉はよく火を通すべきだ。さもなくば食べるのは危険だ。黄色や赤っぽくない、白い鱗の鯉は、水のいいところのものだ。目玉が大きく、頭から飛び出しそうになっていて、口蓋と舌が柔く貼り付いているのは脂が多い…。森鳩は冬が美味…。鱒は冬が美味しく、サーモントラウトは夏。鱒でもっとも美味しいのは尾の方で、鯉の場合は頭。アローズ5は3月にシーズンとなる」。
(原注1)『ル・メナジエ・ド・パリ』は15世紀の手稿本が3つ伝わっている。そのうち2つはブルゴーニュ公爵家所蔵で、ピション男爵の校訂により1846年に出版された。
中世(12)
p.XIII(4)=p.XIV(1)
『ル・メナジエ・ド・パリ』は(全体としては料理書ではなく1)家政書だ。書かれたのは1392年6月から1394年9月の間。著者はかなり高齢の、パリの裕福なブルジョワで、両親のいない15才の娘を嫁に娶ったのだった。このブルジョワは多くの従僕を抱えており、その筆頭には家令またはメートル・ドテルにあたる「歳出係ジャン」と、若妻に付き人として従う「アニェス・ラ・ベギーヌ2」がいた。老ブルジョワは幼な妻にこう書き与える。「小間使いを雇う場合は、以前どんな所にいたのか、実際に従僕をそこに行かせ、口が軽かったり酒飲みでないかなどを調べさせてからにしなさい。(略)15〜20才くらいの小間使いを雇う場合には、その年頃の娘というのはお馬鹿で世間知らずなのだから、自分の部屋の近くで寝かせるようにしなさい。窓が低いところにはない、なおかつ、通りに面していない衣装部屋か寝室を使わせること。(略)従者が病気になった場合は、他の事は後回しにして、心から従者を思いやること。快方に向かうよう細かく気を配ってやりなさい…」
中世(11)
p.XIII(3)
1306年の匿名の著者1と同様、タイユヴァンは、どんな料理でも畜肉、家禽をあらかじめ茹でてから使う。ブルーエ、シヴェ、ラグーは牛のブイヨンにとろみ付けのためのパン2を加えて煮る。砂糖、香辛料、イゾップ、パセリ、セージ、カルダモン3をふんだんに使う。既に湯せんの使用が認められる。あるレシピでは面白い使い方をしている。液体を加えずに鶏を湯せんにかけてたっぷり肉汁を出させ、それを病の床に伏せている者に供するというのだ。ソースはあまりヴァリエーションがない。肉と魚は、煮たものであれ焼いたものであれ、火を通さずに作るソース・カムリーヌか、ミルク4やヴェルジュを加えて火を通して作るソース・ジャンスで食する。ドディーヌ5、どんなに我慢づよいスパルタ人さえもうんざりさせるような6四旬節用フランのごとき料理の一方で、タルムーズ、ブルボン風タルト、卵黄と栗を詰めた仔豚のローストもある。これらは現代でも洗練された味わいと言えるだろう。
中世(9)
p.XII(3)
ギヨーム・ティレルはまず、王妃ジャンヌ・デヴルー付きの厨房見習いとなり、のちにフィリップ・ド・ヴァロワ、次にヴィエノワ王太子、さらにノルマンディ公に厨士として仕える。1373年にはシャルル5世によって国王付き料理長(エキュイエ1・ド・キュイジーヌ)に任命される。『ル・ヴィアンディエ』の執筆はこの時期(1)。シャルル6世の治世には料理担当侍従長となり、1392年に「メートル・デ・ガルニゾン2」に叙せられる。文献によると、タイユヴァンの没年は1395年ごろである。サンジェルマン・アン・レの近く、ノートルダム・デヌモン修道院に葬られた。タイユヴァンは生前、そこに礼拝堂を建立したのだった。
(1)ピション男爵は、『ル・ヴィアンディエ』の執筆時期を1380年以前と考えている。
中世(7)
p.XII(1)
憶測はこのくらいにしておこう。確かなことは、ピドゥが先人達のレシピを多少なりとも進化させ、よりわかりやすいものにしようとしたことだ。バターではなく牛脂あるいは去勢鶏の脂を用い、バターはクレーム・ウスュを作るのにしか用いられていない。塩はほとんど使われていないが、ちょうざめ、ジャコバン風スープ、去勢鶏のロースト、ソース・ド・トライゾンには「大量の」香辛料と砂糖が使われる。パンは重要な役割を果していて、生のパンの身を細かく刻んだ肉に混ぜ込んだり、焼いてから牛のブイヨンや、ヴェルジュを加えた「真紅のワイン」に浸して使う。野菜料理のレシピはほとんどない。その代り、菓子のレシピは多く、ダリオル1、タルムーズ2、ジャコバン風タルト(卵黄を混ぜ込み、通常はオレンジの香りづけをした生地でフロマージュ・グラ3を包んだ焼き菓子)のように、17世紀になってもポピュラーなものもあった。ウブロワイエ4はこれらの菓子と、ウブリ、エショデ、カス・ミュゾ、プティ・シューなどを籠いっぱいに積み上げ、通りを売り歩いていた。
中世(6)
p.XI(1)
16世紀にタイユヴァンやプラティナと同様、多くの美食家たちに愛読された『料理全書』1という本がある。これが書かれたのは1350年頃と考えられる。手稿は現存していない。ギヨーム・ティレルはこの本のことを知らなかったようだが、『ル・メナジエ・ド・パリ』の著者はこの本から随分と着想を得たらしい。この『料理全書』が初めて出版されたのは1540年で、その後60年の間に何度も再版された。ただしほぼいずれも海賊版で、題名も変えられ、内容も改訂され続けた。レシピの順番を変えるくらいにとどめようなどどいう良識のある本屋などほとんどいなかったのだ(原注1)。
p.XI(2)
1350年頃にこの本を書いた料理人たちは何という名前だったのだろう? 詩人がバラードを捧げるなら「風が運び去った」とでも謡うだろうか…。1540年に中世の伝統を守り続けていたピエール・ピドゥという謎に包まれた校訂者は一体何者だったのか? この料理人が実在したのかそうでなかったのか、いずれにしても南仏のペドゥーク2と同じ意味を持つこのピドゥという名よりもふさわしいものがあろうか?ペドゥークはある有名な宿屋の看板にも使われているが、何よりも、聖クロティルダ3、シバの女王、ブルゴーニュのベルタード4といった鵞鳥の足をした女王の伝説のもととなった。それはさておき、この本では hosblutz (ドイツ語の Hausenblase 魚の浮き袋から作ったゼラチン)のような通常はまず使われない語彙がいくつか用いられているので、この「大料理長」はフランドル5出身だったと考えられる(原注2)。
中世(5)
p.X(2)
淡水魚は水煮し、ソース・ヴェルト1を、寒い時期はマスタードを添える。うなぎは現代のマトロートの原型ともいうべき「サラジネ」にする。「うなぎを用意する。皮を剥き切り分ける。塩をして油で炒める。固くなったパンと砂糖をすり潰し、ワインとヴェルジュ2を加える。これをうなぎの入った鍋に投入して煮る。シナモン、ラヴェンダー、クローヴをすり潰してヴィネガー少々でふやかしてから鍋に入れる。しっかり蓋をして(煮る)、火から外す」。
p.X(3)
著者の嗜好はこの時代としては悪いものではなかった. この本に出てくるブラン・ドゥシェ3や鶏のコミネ4、ブラン・マンジェ5、刻んだ肥鶏肉たっぷりのイギリス風の繊細なブルーエ6などは、味付けを少し変えれば現代でも受け容れられるものだろう。その技量と、多くの宴席で勝ち得た成功に裏打ちされた自信から、著者はこの教本の最後に次のように言い切る。「立派なお屋敷に勤めたい者は誰でも、この巻物7に書かれていることを全てを頭に入れなければならない。さもなくば屋敷の主人の意に沿える仕事は出来ない」。