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カテゴリー: エスコフィエ
エスコフィエ『料理の手引き』初版は8フランだった
エスコフィエは「料理の手引き」序文にこう書いている。
本書は、かつて私が構想したとおりとは言い難い出来だが、いずれはそうなるべく努めねばなるまい。とはいえ、現状でも料理人諸君にとって大いに役立つものと信じている。だからこそ本書を誰にでも、とりわけ若い料理人諸君に買える価格にした。そもそも若い料理人諸君にこそこの本を読んで貰いたい。今はまだ初心者であったとしても、20 年後には組織のトップに立つべき人材なのだから。
私はこの本を豪華な装丁の、書棚の飾りのごときにするのは望まぬ。そうではなく、いつでも、どんな時でも手元に置いて、分からないことを常に明らかにしてくれる盟友として欲しい。
日本には、この記述を錦の御旗のように掲げて「だから日本語訳も安価にすべき」と阿房な主張をするひともいるようだ(というか実際にいた)。いや、高価とか安価といった「判断」は個人それぞれの状況と主観に左右されるからいちがいに言えない。だから「事実」を見るだけにしよう。
エスコフィエ『料理の手引き』初版扉のシール 画像はフランス国立図書館蔵 Escoffier, Auguste, Le guide culinaire, Paris, L’Art culinaire, 1903.1https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k65768837.r=Escoffier,%20Auguste?rk=85837;2 つまり『料理の手引』初版の扉ページを拡大したもの。販売価格を記したシールが貼られているのがわかるだろうか。12フラン。
ところがこれ、版元であるラール・キュリネールの同名雑誌年間購読料。まったく紛らわしい。雑誌「ラール・キュリネール」に掲載された広告を見ると
L’Art culinaire 1903 さて、8フランがいまの日本円でどのくらいの価値なのか気になる向きは多いだろう。
フランスは20世紀初頭まで金本位制だったから100年以上金銭の価値に大きな変動はなかったとされている。ただこの金本位制だけを頼りに計算するとおかしな数字になってしまうので、1フラン=5,000〜6,000円くらいで考えるのがこんにちでは一般的なようだ。これは労働者の賃金をベースに考えた場合で、食料品価格をベースに1フラン=2,000円くらいとするケースもある。僕が学生の頃は無根拠に19世紀の1フラン=1,000円と覚えていて、バルザックの小説などを読みながら「なんか計算合わないというか感覚的におかしいんじゃないか、この登場人物たち」とずっと思っていた。いずれにしてもエンゲル係数がとんでもなく高かった昔のことだというのを忘れてはいけない。ここで「実感」が大きく異なるからだ。
そもそも、過去のモノの価値を現在の価格に置き換えることじたいがあまり学術的な結果を期待できないものだ。価値というきわめて主観的な判断に依存したものを定量化、数値として比較するのはナンセンスと言ってもいい。上で書いた5,000〜6,000円という数字もあくまで目安にすぎない。
それでも大雑把に見積もると、『料理の手引き』初版、1903年時点で8フラン=40,000〜48,000円くらいということになろうか。
もちろん当時はTVA(付加価値税)なんてなかったから、いまならそれが価格に上のせされるだろう。フランスのTVAは書籍だと5.5%(軽減税率、標準だと20%)、日本なら10%。「いまの価格に置き換える」というならこれも勘定に入れないといけない。
さて、エスコフィエの序文にもどって「若い料理人諸君に買える価格」と豪華な装丁の、書棚の飾りのごときにするのは望まぬ」という表現はいっけんしたところまったく矛盾がないように思えるだろう。というかそもそも矛盾していると気づかないかもしれない。
ここで『料理の手引き』の判型つまり本のサイズが問題になるのだが、すでに長くなってしまったので次回にしようと思う(つづく)。
すごい本のいちばんすごいところ……エスコフィエ『料理の手引き』
Facebookに投稿したものの再掲です。
オーギュスト・エスコフィエ(1846 〜 1935)、近代フランス料理最大の偉人です。でも「昔のえらい人」くらいのイメージしかないかもしれませんね。ましてやその著書『料理の手引き』となると……「えらい人が書いたすごい本」。そりゃ間違いなくそうですが……
なんでこの本がすごいか? たんにレシピを集めて並べただけの本じゃない、フランス料理を「体系化」したからです。後にも先にも、ここまで徹底しているものはありません。逆に言うと、フランス料理を体系的に勉強するにはいまもこの本をマスターするしかないわけです。
体系化=システムの構築ですから、とにかく無駄がありません。同じ説明、記述の繰り返しをとにかく避けます。これはすでに説明したからここでは繰り返さない、みたいな文が何か所もあります。それはつまり、理解したかったら別のページを参照しろ、ってことです。そういうのが5000におよぶレシピと解説全体で徹底しています。
体系化が端的に表われているのがソースです。まず「フォン」(だし)が数種類あります。それにルーなどを加えてソース・エスパニョルやヴルテ、ベシャメルのような「基本ソース」が作られます。基本ソースにいろいろな調味料、アルコール、野菜などを足すことで「派生ソース」が作られます。このシステムをスッキリ仕上げたのがエスコフィエなんです。それ以前の料理書でもソース作りをシステマティックにしようとしている形跡はあるんですが、エスコフィエはその完成形です。
いま日本の料理書はどちらかというと写真集みたいなのが多いと思います。ある料理のページならそこを読むだけで料理が作れるようになっている、つまりそれぞれ独立したレシピが順に並んでいることでしょう。とっつきやすいのは確かですが、教科書としてみるなら非効率この上ないんです。応用、展開するための発想、考え方を身に付けさせる意図はあんまりないんだと思います。
そういう意味で『料理の手引き』は、フランス料理、というか近代以降の西洋料理を「体系的に」学ぶための唯一無二といっても過言ではないと思います。
ただレシピを並べただけの本ばかりで学ぶか、体系的に学んで応用力、展開力を身につけるか……この差は大きいでしょう。
電子書籍 エスコフィエ『料理の手引き』EPUBファイルについて詳しくみる
紙媒体での刊行予定はありません
電子書籍版EPUBファイル販売中のエスコフィエ『料理の手引き』五島訳ですが、紙媒体つまり昔ながらの普通の本として出版の見込みが2022年11月19日現在、まったくありません。
恥ずかしながら友人との電話で、この事実をきちんとアナウンスしていなかったと気づかされました。あらためて、紙の本として出版する見通しが現状ゼロであることをご報告いたします。そして、僕の心理として積極的に紙の本を出版する活動を今後するつもりがないことをお伝えします。そのようなわけで、電子書籍版のご利用をお願いします。以下ちょっと長くなりますがその理由です。
電子書籍 EPUB ファイルを作成する過程で、このエスコフィエの稀代の名著はそもそも内部参照の多い構造と文章になっているから「理解できる」ものにするにはリンク機能をつかえる電子媒体が最適で、コストのやたらとかかる紙媒体は不要との思いをますます強くしました。
120 年前にハイパーテキスト構造を内在させているともいえる書物を執筆、構成したエスコフィエとその協力者たちの慧眼には敬服するほかありません。ただ、その結果として、『料理の手引き』は全体を理解していないとレシピのひとつも理解できない、ひとつひとつのレシピを理解していないと全体を理解できないという、読者にとってはまことに不都合な、難解な名著になってしまっています。この問題を解消、乗りこえるには紙の本の場合、何回も繰り返し、ていねいに読む、熟読するほかありません。
紙媒体の本はたしかに、電気がなくても光さえあれば読める、火事や水害がなければ保存性も高いといった利点があります。なにより紙の書物はヨーロッパで600年以上作られてきた、そしていまも現存するものがあるという実績、歴史があります。ただ、どうしようもない欠点もあります。どんなにていねいに扱っているつもりでも、何回も読んでいるとぼろぼろになってしまうんです。
僕の手元にある『料理の手引き』フランス語原書は2回崩壊して綴じ直しました。英訳第五版は崩壊はしてないですが見た目がかなりボロくなっています。ちなみに学生時代から常用している『ロワイヤル仏和中辞典』は4代目。ぼろぼろに崩壊して修理を繰り返し、それでも3回買い替えています。
モノは使っていればボロくなります。使ってなくても経年劣化します。そういうものにコストをかけて、しかもリスクを負うことはできません。頭を下げたくないです。なので僕自身は電子書籍版の販売は熱心にしますが、紙媒体出版についてはこれ以上何もするつもりはありません。できることはすでにしましたので。どうぞご理解ください。
電子書籍版エスコフィエ『料理の手引き』EPUBファイル
メール添付のEPUBファイルをダウンロードして開く (iPad)
- iPad のメール.appで受信する。
- タップしてダウンロード
- もう一度タップして「ファイルに保存」……これでいちおう安心です。
- もう一度タップして「ブック」を探してタップ。
- 自動的にエスコフィエ『料理の手引き』が開かれます。タップ、スワイプでページをめくる。左上の横棒3本のアイコンが「目次」。
Apple のデバイスはどれかひとつで上を手順を踏むと、おなじiCloudアカウントの違うデバイスでも「ブック」を開くだけでダウンロードなどの作業は必要ありません(iCloudの設定でブックをオンにしている必要があります。また、High Sierra のような少し古いMacOSは同期されないので注意)。
iPhoneでも手順は同じです。なるべく新しいモデル、OSでの利用をおすすめします(動画はiPad第6世代9.7インチiPadOS15.7)
棚の飾りになっているだろうあの訳書のこと
ちょっとネガティヴな内容なのでぼかして書きます。お察しください。
翻訳の場合、理解できない、意味不明というのは、もちろん読み手があまりに読解力のない場合は仕方ないかも知れませんが、たいていの場合は誤訳です。翻訳者が間違えているんです。
翻訳をしていると誤訳はつきものです。ゼロにするのは非常に難しい。簡単なところでうっかりミスをしていたりというのもよくあります。だから翻訳者としては真摯に受けとめなくちゃいけないんだけど、それでもやっぱりいちいちあげつらわれるのは辛い。自分でもそういう自覚はあるから、黙っていたいとも思います。
実際、訳書の善し悪しは読者が決めるわけですから、他の翻訳者の仕事をあれこれ言うのは感心できることじゃないです。ただ、文学とか思想書の場合、読者は複数の訳を読んでくれますからそれでいいんですが、料理書だとどうも様子が違うみたいで、古いのがあるからもういらない、的な雰囲気なんですよね。ちゃんとした翻訳だったらもちろんいいんですが、あの訳書は誤訳が非常に多いので、そうもいかないように感じています。
あの訳書で勉強しようとした料理人さんは多いと思います。でも勉強にならなかったのではないでしょうか? だって、あまりに誤訳が多いし、意味不明の箇所多数、用語の統一もされていないのですから。
かなり致命的と思われる誤訳の例を少しだけ挙げておきます。
- poêlé を「フライパン焼き」としている箇所がある (原書では「フライパンで焼く」の意味で poêlé を使っているところは1箇所もない)
- barde, lard を「ベーコン」と誤訳している箇所がある (アメリカ料理、イギリス料理ではベーコンを使うものも多いですから、それにつられて疑問にも思わないかも知れませんが、原書に書いてあるのとはまったく違う結果になりますね)
- maigre の誤訳多数 (これはすごいです。ものすごい数の意味不明箇所の原因のひとつです。例えば魚のフォン (フュメ) で作ったジュレのことを「脂肪の少ない」としちゃっています)
「箇所がある」と書いたのは、正しく訳しているケースもあるからです。不思議なことに。あるひとつの語をおなじページで片方は正しい訳なのに、片方は明らかな誤訳という共存さえ見られる。ちゃんと校正したのか訝しくさえ思えてきます。
ここで「正しい」とか「誤訳」とか言っているのは原文の「解釈」のレベルじゃないです。単純に、翻訳者に知識があるかないかの問題なんです。非常に低次元です。
とはいえ、とても古い本ですから、そっとしておいてあげたほうがいいでしょうね。批判をはじめたらキリがないですが、僕もこれ以上は書きたくないのでやめておきます。ただ、もはやあの訳書は「読まない」ことを強くお薦めしたいです。「あの訳書を持ってるから、新しいのはいらない」なんて言わずに、せっかくですから新訳でお読みください。
プロの料理人がエスコフィエを読むべき理由
ヘストン・ブルメンタールがエスコフィエ『料理の手引き』の英訳 (2011年改装版) に寄せた序文から引用
料理人のなかには, クラシックな伝統から逃れたい, エスコフィエのような権威は保守的で時代遅れだからと否定したい誘惑にかられるひともいるだろう. 大きな間違いだ. […] 僕に言わせれば, 偉大な料理というのは伝統を壊すことではなく, 伝統をあらたな方向に導くことで産みだされる. 革命を起すことよりも進化させることが大事なんだ. (Escoffier, Le Guide Culinaire, trad. H. L. Cracknell and R. J. Kaufmann, John Wiley & Sons, New York, 5th ed., 2011 (1st ed. 1979) , p.vii.)
ちょっとくだけた感じに訳してみましたが, 最初に読んだとき, いいこと言うなぁ, とすごく感心したんですよ. ヘストン・ブルメンタールだからこその説得力. ツテがないんで「引用」しかできませんが, 許可をとって全文訳したいくらい素晴しい序文です.
さて…
古いものを壊して新しい創造をする…一見, 格好いいですが, ともすれば薄っぺらいものしかできないんですよね. そりゃ, もしかするとすごいものができるかも知れないけど, 博打でしょう.
クリエイティヴを志向するというのは「表現行為」をすることにほかなりません. 言語の場合で考えてみると, 表現をするためには語彙と文法が必要です. 語彙は多ければ多いほど豊かな表現ができるようになります. 正しい文法にのっとった表現じゃないと「単語の羅列」になってしまい, 伝わりません. 料理もおなじだと思います. 正しい文法と豊かな語彙を身につければそれだけ「自由に」表現できるようになります. そして料理の文法と語彙は『料理の手引き』のような古典で学ぶほかありません.
「車輪の再発明」という言葉があります. Wikipediaの定義を引用すると「広く受け入れられ確立されている技術や解決法を知らずに(または意図的に無視して)、同様のものを再び一から作ること」です. 「意図的に無視して」というのは教育の現場で帰納的な学習をさせる場合のはなしで, 通常は愚かなこと, 非効率なこととして否定的な意味で使います. 「既存のものの存在を知らない」「既存のものの意味を誤解している」ということです.
正直なところ, 料理の場合, これがけっこう多いように感じています. 伝聞なんですが, あるシェフが何年もかかって到達したというある技術, 『料理の手引き』できっちり説明されてるんです. そのシェフは「エスコフィエなんて古くて役に立たない」みたいなことを雑誌の記事でおっしゃっていたんで, きっと読んでいないのでしょう. 読んでいればもっと早く, ずっと楽に到達できるでしょうし, 「古くて役に立たない」なんて言うはずがないですから…
いまエスコフィエを読むことの意義は, トラディショナルな料理を作れるようになるためだけじゃなくて, より自由でクリエイティヴな仕事をするための「語彙と文法」を知ることでもあるのです. だから, これから上を目指す若い「未来のシェフ」にこそ読んでほしいと思います.
エスコフィエは冷製に冷淡?
「専門料理」連載「エスコフィエを読む」2013年10月号「ガランティーヌ」の補足記事です.
『ル・ギード・キュリネール』の「冷製」FROID の章(原書pp.697-714)は,今回の「ガランティーヌ」と,次号予告に出ております「パテとテリーヌ」(pp.697-704),「サラダ」(pp.705-714)で構成されています.ガランティーヌとパテとテリーヌを合わせてわずか8ページなんです.ガランティーヌについては,今回右ページに訳出したものと,左ページ上の表だけ.これで全部です.
パテとテリーヌもそうですけど,ガランティーヌって現代でもそれなりに作られますよね.というか,冷製料理は他にもいろいろある筈なのに,これだけ? って思っちゃいますよね.いえいえ,ちゃんと素材別のページに出てるんですよ.ブフ・アラモード冷製とかベカスのサルミ冷製とか…
実際のところ,初版では「冷製」はそれなりの分量(pp.579-630)があったんです.それが第二版でほぼ現状の,ガランティーヌ,パテ,テリーヌとサラダだけ残って,それ以外は素材別のページに移動しちゃったんです.
だから目次だけ見て,「あんまり冷製料理が出てないじゃん」って判断しちゃいけないわけです.
とはいえ,ガランティーヌの素材を家禽,猟鳥に限定しちゃっているのは時代性なんでしょう.『ル・ギード・キュリネール』より少し後の『ラルース・ガストロノミーク』初版(1938年)でも「肥鶏のガランティーヌ」の詳細なルセット2つの他は「おまけ」のように「うなぎのガランティーヌ」が出ているだけです.本来なら仔牛,仔豚,うさぎ等の素材でもガランティーヌは作りますからねぇ.現代のガランティーヌの直接的な原形のもっとも古いもののひとつは17世紀マシアロの「乳呑み仔豚のガランティーヌ仕立て」ですしね.
ルヴェテュとヴォリエール
「専門料理」連載「エスコフィエを読む」2013年9月号「ロティ(2)」の補足記事です.
この数年でしょうか,キュイジニエ諸氏のブログや Facebook で「ペルドロ入荷しました!」といった感じで,羽をむしる前の猟鳥類の写真をよく見かけます.ひと昔前だったら,多くの日本人にとっては「生々し過ぎ」て目をそむけたくなるような印象かも知れません.
もう15年以上前のことですが,フランスに留学していた頃,秋になると野生のうさぎが食肉処理されていない=毛皮がついたままの状態で肉屋の店頭に大量に積み上げられているのを見て軽くショックだったのを良く覚えています.そういう売り方をするというのはフランス語の教材か何かで見て知ってはいたんですけどね.
さて,9月号108ページの網掛け部分
中世には猟鳥類のロティは羽で飾って供した
解説にありますように,衛生面で問題があるからこんなことやっちゃいけません.論外です.でも,衛生面の問題を別にしたら,そういうのを「美しい」とか「美味しそう」とする食文化がフランスにあったということは知識としては持っていた方がいいでしょう.いい悪いの問題ではありません.文化というのは相対的なものですから優劣なんかないんです.日本だって魚介の活け造りや姿盛りが好まれたりしますから似たようなものです.
ひとつめの画像は『ラルース・ガストロノミーク』初版(1938年),2つめは L’art culinaire français (1950)からです.どちらもロティじゃないです.こういう仕立てを「ヴォリエール」 en volière と言います.単に盛り付け,装飾の問題ですから,シンプルな盛り付けをモットーとする『ル・ギード・キュリネール』には出ていません ((大皿料理の多い『ル・ギード・キュリネール』の,トリュフや茹でた卵の白身,赤舌肉=ラング・エカルラートなどで装飾する盛り付けの指示は現代の感覚からすると過剰に思われるかも知れませんが,それでも当時としては画期的なまでに簡略化されたものでした.)) .しつこいようですが,衛生面のリスクがありますから,絶対にこんな仕立てをやっちゃいけません.
残念なことに適当な画像が見つからないので,文字だけで説明しなければなりませんが,中世はもっと凄かったんです.まず,中世には現代ではフランス料理の食材として認知されていない白鳥,孔雀,こうのとり等のロティがとりわけ豪華な料理として好まれたということを頭に入れておいてください.
画像は14世紀末に書かれた『ル・メナジエ・ド・パリ』に出てくる,白鳥の羽をつけたままの皮を被せた仕立て(ルヴェテュ)です.両翼の付け根の間に管を差し込んで空気を入れて膨らませ,皮が肉から離れるようにする.これを腹の側から縦に切り開く.頸と手羽は皮の側に残すようにして,皮を剥ぐ.脚は肉の側につけておく.大串を刺し,弓形になるよう小串で形を整えて ((ラルデするという解釈もある)) こんがりと焼く.焼き上がったら皮をかぶせ,頸がまっすぐになるようにする.
なかなか壮絶(?)な仕立てですよね.白鳥だから大きいです.これをどーんとテーブルに置いてプレゼンテーションするわけです.どうやら17世紀くらいまではこういう仕立てが行なわれていたようです.ただ,皮はもちろん生ですから,そんなもの被せちゃったらせっかくこんがり焼いた肉の風味は損なわれますし,衛生上大問題です.論外です.当時はそういう認識はなかったとしても少なくとも美味しいものとは考えられていなかった.単に見た目が豪華なだけの,スペクタクルみたいなものだったようです.
だからでしょうか,白鳥は必ずこの仕立てというわけではなく,『ル・メナジエ・ド・パリ』でもこのルセットの直前に,普通に羽をむしってロティールする方法が出ています(頭部は羽をむしらないままとなっていますが).で,こういう仕立てにすることもあると言って「ルヴェテュ」が出てくるわけです.
この「ルヴェテュ」の仕立てはたんに「見た目の豪華さ」が主眼ですから,16世紀にイタリアから砂糖細工の技術が伝えられ,砂糖の彫刻などが作られるようになると,宴席の「華」はそちらに移行していきます.さらに時代が下ると氷の彫刻などがこれに取って代わった,と考えてもいいでしょうね.
白鳥つながりで連想されるのはエスコフィエのペーシュ・メルバ.オリジナルは氷彫刻の白鳥に盛り付けるんですよね.現代のペーシュ・メルバは白鳥の影もかたちもないのが普通だと思いますが,そもそもは,白鳥の騎士の物語であるワーグナーのオペラ『ローエングリン』のエルザを演じたネリー・メルバに捧げたデザートです.
ロティスールとは(2)
「専門料理」連載「エスコフィエを読む」2013年8月号「ロティ(1)」の補足記事です.
さて,お待ちかね(?)のロティスールという職業についてです. フランス革命の少し前,ルイ16世の時代にギルドが廃止されるまで,食にかかわる職業は職種ごとに組合があり,法律で取扱品目が限定されていました.言ってみれば独占販売権ですから,互いに利権争いをしていました.ブゥシェ boucher は牛,羊を屠殺して肉を販売する権利がある ((viande de boucherie は直訳すると「肉屋の肉」だから食肉なら何でも含まれるような気もするかも知れませんが,実際には牛,羊の肉しか指しません.豚やジビエが含まれていないのはこういう歴史的背景があります.)) .ロティスール rôtisseur はロティした肉ならどんな種類のものも販売していいが,ソースは売ってはいけない.トレトゥールはラグーを作って販売出来る.パティシエは肉を生地で包んで焼いたもの(パテ pâté )や生地を焼いた菓子を製造販売する.シャルキュティエ charcutier は豚肉および豚肉加工品を扱うが豚を屠殺することは出来ない…といった具合です.
ロティスールの組合は1509年にブゥシェから分化したかたちで成立しました.当初はプゥライユール poullaieur と言っていました.それ以前はブゥシェがロティを扱っていたということになりますね.実際,ブゥシェの組合は中世には4家が権利を独占していたが1481年以降,魚とシャルキュトリ,ジビエ,ロティスリ,内臓の販売権を失なったということです.
ついでに,シャルキュティエの組合の成立は1475年,パティシエは1440年です. ロティスールは素材を串(ブロッシュ broche)で刺して焼いていました.オーヴンは使いませんでした.というか使えなかったんです.肉を焼くのにオーヴンを使うのはパティシエだったんです.
画像は17世紀の戯画.ロティスールの使う道具(=串)と扱っている素材がよく分かりますね.
ところで,ロティスールとかパティシエといった職業名を名乗るのは親方だけです.その下で働く職人,徒弟はそういった職業名を名乗らなかった(許されなかった)ようです.また,利権がらみですから世襲が基本で,跡取りがいなければ娘婿(通常は徒弟の中で優秀な者)が継ぐといったケースが殆どだったようです.ロティスールにしろパティシエにしろ利権争いをするような組合組織があったわけですが,キュイジニエという言葉(古くはクー queue とかエキュイエ écuyer という言葉も用いられました)は「料理人」「料理をする人」という意味の一般的な名称でしたから,利権がらみの組合なんてありませんでしたし,料理人は誰でもキュイジニエと呼ばれていたわけです.
というわけで,もう一度ブリヤ・サヴァランの言葉を見てみましょう.
On devient cuisinier, mais on naît rôtisseur.
「(キュイジニエという職業は制限がないから)誰でもキュイジニエにはなれるけど,ロティスールは(組合やらいろいろ制限があって)誰にでもなれるものじゃない」というようにも解釈できなくはないわけです. ところがブリヤ・サヴァランのこの言葉,元ネタらしきものがあるんです.辻静雄は
これは分からん言葉ですね.四番目,十四番目と同じような何かのパロディというような気がしますが.岩波書店の『ギリシャ・ラテン引用語事典』というのをパラパラとめくっていましたら「高貴なる人は生まれる,作られず」なんてのが出ていましたから,こんなところが案外出所かもしれないと思いますね.(「ブリア-サヴァラン『美味礼讃』を読む」)
と書いています.そう,パロディなんです.前回のエントリで述べましたように『味覚の生理学』というのは基本的には「おもしろ読み物」なんです.だから遊び心があると考えるのが自然です. で,元ネタらしきもの.ローマ時代の政治家,文筆家キケロの
Nascuntur poetae fiunt oratores
フランス語だと
On naît poète on devient orateur
順は逆ですがよく似ていますよね.「人は生まれながらにして詩人だが,雄弁家には努力しないとなれない」くらいの意味です.これを踏まえてブリヤ・サヴァランの言葉を解釈すると… いや,パロディですし,そもそもアフォリズムという短文形式はひとつの限定された解釈をするのが非常に難しいというか,いろんな解釈が可能ですから,とりあえずこのくらいにしておきましょうか.
いずれにしても『ル・ギード・キュリネール』で引用されている文脈では「誰でもキュイジニエになることは出来るが,ロティールは生まれつきの才能次第だ」という意味です.そう解釈してやらないと『ル・ギード・キュリネール』の方を読み間違えることになってしまうのでご注意を.