ちょっとネガティヴな内容なのでぼかして書きます。お察しください。
翻訳の場合、理解できない、意味不明というのは、もちろん読み手があまりに読解力のない場合は仕方ないかも知れませんが、たいていの場合は誤訳です。翻訳者が間違えているんです。
翻訳をしていると誤訳はつきものです。ゼロにするのは非常に難しい。簡単なところでうっかりミスをしていたりというのもよくあります。だから翻訳者としては真摯に受けとめなくちゃいけないんだけど、それでもやっぱりいちいちあげつらわれるのは辛い。自分でもそういう自覚はあるから、黙っていたいとも思います。
実際、訳書の善し悪しは読者が決めるわけですから、他の翻訳者の仕事をあれこれ言うのは感心できることじゃないです。ただ、文学とか思想書の場合、読者は複数の訳を読んでくれますからそれでいいんですが、料理書だとどうも様子が違うみたいで、古いのがあるからもういらない、的な雰囲気なんですよね。ちゃんとした翻訳だったらもちろんいいんですが、あの訳書は誤訳が非常に多いので、そうもいかないように感じています。
あの訳書で勉強しようとした料理人さんは多いと思います。でも勉強にならなかったのではないでしょうか? だって、あまりに誤訳が多いし、意味不明の箇所多数、用語の統一もされていないのですから。
かなり致命的と思われる誤訳の例を少しだけ挙げておきます。
- poêlé を「フライパン焼き」としている箇所がある (原書では「フライパンで焼く」の意味で poêlé を使っているところは1箇所もない)
- barde, lard を「ベーコン」と誤訳している箇所がある (アメリカ料理、イギリス料理ではベーコンを使うものも多いですから、それにつられて疑問にも思わないかも知れませんが、原書に書いてあるのとはまったく違う結果になりますね)
- maigre の誤訳多数 (これはすごいです。ものすごい数の意味不明箇所の原因のひとつです。例えば魚のフォン (フュメ) で作ったジュレのことを「脂肪の少ない」としちゃっています)
「箇所がある」と書いたのは、正しく訳しているケースもあるからです。不思議なことに。あるひとつの語をおなじページで片方は正しい訳なのに、片方は明らかな誤訳という共存さえ見られる。ちゃんと校正したのか訝しくさえ思えてきます。
ここで「正しい」とか「誤訳」とか言っているのは原文の「解釈」のレベルじゃないです。単純に、翻訳者に知識があるかないかの問題なんです。非常に低次元です。
とはいえ、とても古い本ですから、そっとしておいてあげたほうがいいでしょうね。批判をはじめたらキリがないですが、僕もこれ以上は書きたくないのでやめておきます。ただ、もはやあの訳書は「読まない」ことを強くお薦めしたいです。「あの訳書を持ってるから、新しいのはいらない」なんて言わずに、せっかくですから新訳でお読みください。