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カテゴリー: フランス食文化史
ラ・ヴァレーヌのラグゥ(2)
17. 牛舌肉のラグゥ仕立て Langue de boeuf en ragoût
牛舌肉に、長い棒状に切った背脂をラルデ針で縦に刺し込む。鍋で茹でる。しっかり味付けする。おおむね火が通ったら火から外して冷ます。拍子木に切った背脂を刺し、ロースト用の串を通す。煮汁をかけながら焼き上げる。串を抜いたら煮汁に戻し入れ、すり潰した玉ねぎ少々、背脂少々、ヴィネガー少々を加えて弱火で煮込む。
Lardez la de gros lard, puis l’empotez, faites cuire, et assaisonnez de haut goût. Lorsqu’elle sera presque cuite laissez la refroidir, piquez la, embrochez, et arrosez de son ragoût jusques à ce qu’elle soit rotie, et tirée faites la mitonner dans la sauce avec un peu d’oignon pilé, un peu de lard, et un peu de vinaigre, puis servez.肉を下茹で→ロースト→煮る、というプロセスは中世の料理では珍しくなかった。その意味では、この「牛舌肉のラグゥ仕立て」はやや前時代風なのかも知れない。一方、中世で多用されていた香辛料がまったく使われていない点も面白い。
ローストする際に煮汁をかけながら(アロゼ)焼くわけだが、語学的な面では、その煮汁をラグゥ ragoût と呼んでいるのがとりわけ興味深い。さらにこの煮汁はソース sauce と言い換えられている。
ラグゥ ragoût は17世紀になってから用いられるようになった言葉で、語源的には「食欲をそそるもの」の意があるわけだが、ここでは既に、「ソースと具材が一体になった煮込み、およびその煮汁(ソース)」の意味で用いられていることが確認されるわけだ。
ラ・ヴァレーヌのラグゥ(1)
ラ・ヴァレーヌのラグゥをひとつずつ見ていくことにする。フランス語は現代の綴りにしたが、文法や語彙は原文のまま。注をつけておくので適宜参考にされたい。
16. 山うずらのラグゥ仕立て Perdrix en ragoût
Prenez vos perdrix1, habillez-les2, et les piquez3 de trois ou quatre lardons de gros lard4, puis les farinez5 et les passez6 dans la poêle avec lard ou saindoux; ensuite faites-les cuire dans une terrine, bien consommer7 et assaisonner. Lorsque vous voudrez servir prenez du lard et le battez dans un mortier, mêlez le dans votre ragoût8, et servez.
山うずらを掃除し、拍子木に切った背脂3〜4本を刺す。小麦粉をまぶし、背脂かラードを熱したフライパンで焼く。これを陶製の鍋に入れる。(ブイヨンを注いて火にかけ、)完全に火を通す。味付けする。背脂を鉢に入れて叩き、提供直前に混ぜ込む。
- 「山うずらとちりめんキャベツ」参照。 ↩
- habiller は「着せる」ではなく「身支度を整える」のイメージ。つまり余分な部分は切り落し、きれいに整形することなので、この1語で羽をむしり、首づるを落して内蔵を取り除き、必要に応じて腿を固定するという一連の下処理の作業を表している。ラ・ヴァレーヌ以前、つまり中世の料理書であればさらに「下茹でする」ところ。実際、ラ・ヴァレーヌでも肉を炒める(焼く)前に下茹でする指示がされているレシピもある。なお、ここでは「切り分ける」とは言っていないことに注意。また、ここで使用される山うずらが「複数」であることにも注意。 ↩
- piquez-les ↩
- gros lard は豚背脂で赤身肉が付いていないものを言う。 ↩
- farinez-les なお、素材に小麦粉をまぶしてから炒める、炒めてから鍋に小麦粉を振り入れる、別鍋に油脂を熱し小麦粉を炒めてから煮汁に加える、等の方法は17世紀以降に一般化した。 ↩
- passez-les. passer は「漉す」ではなくこの場合は「フライパンで焼く」。ただしどの程度の火力を用いるか、焼き色を付けるかどうかは記されていない。 ↩
- consommer は「完成させる」の意。また、煮るためには何らかの液体を注ぐわけだが、ここでは自明のこととして明記されていない。ラ・ヴァレーヌの他のレシピとの比較から、「ブイヨンを注ぐ」という指示が省略されていると考えるのが妥当だろう。また、「陶製の鍋」を用いることから、弱火でじっくり時間をかけて煮ることが推測される。さらに、この consommer「完成させる」が煮汁を煮つめることも含意している可能性に留意すること。 ↩
- 現代なら、仕上げとしてバターを混ぜ込む(monter au beurre 日本語では「ブールモンテ」などと呼ぶことが多い)ところ。 ↩
ラ・ヴァレーヌのラグゥ一覧
17世紀ラ・ヴァレーヌ『フランス料理の本』には「ラグゥ仕立て」(en ragoût)がとても多い。以下、この本のアントレの章の目次を現代フランス語綴りに直して書き写しておく。
- Poulet d’Inde à la framboise farci
- Membre de mouton à la Cardinale
- Jarret de veau à l’épigramme
- Longe de veau à la marinade
- Canards en ragoût
- Pigeonneaux en ragoût
- Poulardes en ragoût
- Boudin blanc
- Saucisse de blanc de perdrix
- Andouilles
- Cervelas
- Poulet mariné
- Manches d’épaules à l’olivier
- Pièce de boeuf à l’Anglaise
- Poitrine de veau à l’estouffade
- Perdrix rôties en ragoût
- Langue de boeuf en ragoût
- Langue de porc en ragoût
- Langue de mouton en ragoût
- Queue de mouton en ragoût
- Membre de mouton à la daube
- Poulet d’Inde à la daube
- Civet de lièvre
- Poitrine de mouton en haricot
- Agneaux en ragoût
- Haut côté de veau en ragoût
- Pièce de boeuf à la daube
- Membre de mouton à la logate
- Pièce de boeuf à la marotte
- Queue de mouton rôtie
- Pièce de boeuf et queue de mouton au naturel
- Cochon à la daube
- Oie à la daube
- Oie en ragoût
- Sarcelles en ragoût
- Poulet d’Inde en ragoût
- Cochon en ragoût
- Longe de veau en ragoût
- Alouettes en ragoût
- Foie de veau fricassé
- Pieds de veau et de mouton en ragoût
- Gras-double en ragoût
- Poulets fricassés
- Pigeonneaux fricassés
- Fricandeaux
- Fricassée de veau
- Rouelles de veau en ragoût
- Epaule de veau en ragoût
- Epaule de mouton en ragoût
- Poitrine de veau frite
- Longe de chevreuil en ragoût
- Côtelette de mouton en ragoût
- Boeuf à la mode
- Boeuf à l’estouffade
- Lapereaux en ragoût
- Longe de porc à la sauce Robert
- Perdrix à l’estouffade
- Chapon aux huîtres
- Halbran en ragoût
- Longe de mouton frite
- Foie de veau en ragoût
- Poulets à l’étuvée
- Tête de veau frite
- Foie de veau piqué
- Abattis de poulets d’Inde
- Epaule de sanglier en ragoût
- Cuisseaux de chevreuil
- Membre de mouton à la logate
- Cochon farci
- Pieds de mouton fricassés
- Langue de mouton rôtie
- Hachis de viande rôtie
- Atteraux
- Hachis de viande crue
- Poupeton
- Tourte de lard
- Tourte de moelle
- Tourte de pigeonneaux
- Tourte de veau
- Pâté de chapon désossé
- Pâté de godiveau
- Pâté d’assiette
- Pâté à la marotte
- Pâté à l’Anglaise
- Pâté à la Cardinal
- Poulets en ragoût dans une bouteille
- Tranche de boeuf fort déliée en ragoût
山うずらとちりめんキャベツ
山うずら perdrix (ペルドリ)…カタカナだと「ペルドロー」と呼ばれることも多いが、perdreau はその年に生まれた若いペルドリのこと。
ペルドリは羽の色で灰色と赤の二種がある。中世から猟鳥として好まれた。
シャルル・ペローの「長靴をはいた猫」(17世紀)でも、猫が「ふすま」を餌に罠を仕掛けて「鷓鴣」を獲る場面があるが、それがペルドリ。厳密に言うと「しゃこ」とペルドリは違う種類らしい。食文化史的にはこの場面のポイントはもうひとつ、「ふすま」を餌に使用するということ。ふすまは主として小麦の外皮部分だから、コメの「糠」に相当するけれど、「ふすま」を餌に出来るということは、それだけ小麦粉の精白度合いが高くなった時代背景があることを意味している。小麦を粉にするにはいろんな方法があるが、水車を同量く石臼を回して粉にして、それを篩にかけるという方法が代表的だろう。
19世紀、スタンダール『赤と黒』の冒頭で、粉屋の息子ジュリアン・ソレル(主人公)が、小麦粉まみれで真っ白になっている描写がある。この時代になると小麦の精白度合いはかなり高くなっていたわけだ。だから『赤と黒』は赤が軍服、黒が僧服を意味していると解釈するのが一般的だが、もうひとつ、粉屋の「白」もあったのだが、それでは小説にならないと作家は考えたのだろう。主人公を長男でないために粉屋の跡を継げないという、「長靴をはいた猫」と似たような設定になっている。
ちなみに、perdrix blanche, perdrix de neiges というと山うずらではなく「雷鳥全般」のこと。perdrix de mer は「アジサシ」、perdrix d’eau はソール(舌びらめ)やペルシュ(パーチ)を意味する場合もある。
山うずらといえば、ちりめんキャベツを使ったシャルトルーズ仕立てが有名だが、この料理は19世紀前半のボヴィリエが初出だったように記憶している。もちろんカレームの『19世紀フランス料理』にも出てくる。ただし、いずれも「シャルトルーズ」の語は料理名に使われておらず、たんに「山うずらとちりめんキャベツ」となっている。
注意してほしいのは、シャルトルーズというのは「仕立て」を表わす語であって、その仕立てはカレーム、エスコフィエを読むとわかるが、複数の種類の野菜とファルスを使う。だから、ペルドローとちりめんキャベツだけの組み合わせでシャルトルーズなんて謳うと、とんだ恥をかくことになる。
山うずらとちりめんキャベツの取り合わせで僕が知るなかでもっとも古い料理は17世紀ラ・ヴァレーヌのもの。
山うずらとちりめんキャベツのポタージュ 山うずらを掃除したら背脂のシートで胸をくるみ、腿を折り畳んで固定する。下茹でしてから別鍋に移し、ブイヨンを注ぐ。ちりめんキャベツを用意し、山うずらとともに煮る。火が通ったら溶かした背脂少量を加え、クローブ、こしょうで味付けする。パンを加えて弱火で煮込む。仔牛胸腺肉か、仔牛の腸詰を添えて供する。
ポタージュの概念がいまと違うことに注意。17世紀は、ポタージュが汁を味わう料理へと変遷しはじめた時代だが、ラ・ヴァレーヌの場合は中世的なポタージュつまり「煮込み」のニュアンスが強い。
それから、ちりめんキャベツは加熱に時間がかかるのであらかじめしっかり下茹でしておくべきだろう。もっとも、強い霜にあたったものであればすぐに火が通るから、下茹でが不要な場合もある。
ところで、日本の料理人さんはちりめんキャベツというととにかく緑の濃いものを望む傾向にあるが、そもそも結球野菜は、結球内部に日光があたらないわけだから内部まで緑が濃いなどということはあり得ない。ちりめんキャベツの場合は結球内部が黄色いのが品種として正しい姿。それに、結球野菜は外葉で光合成した養分を結球内部の葉に貯め込むわけだから、美味しいのは結球の中(黄色)のほうであって、緑色をした外側ではない。もちろんこれは理屈のうえでのことに過ぎず、どんな食材でも、料理する者や食べ手の主観、もっと言えば先入観によって「美味しさ」はかなり左右される。
もうひとつ、日本の白菜の品種には内部が黄色い「黄芯」と呼ばれるタイプのものが多いが、もともと中国から導入されたチーフー系品種はあまりきれいな黄色にならないので、きれいな黄色を出すために育種過程でちりめんキャベツが交配されているそうだ。
シチューは蒸物?
画像は仮名垣魯文編『西洋料理通』1872年(明治5年)、下巻、「スチュードポークマツトンビーフウイール 豚綿羊牛肉并に小牛肉の蒸物」のページ。
大意は…
豚肉、羊肉、牛肉および仔牛肉のシチュー
材料…
肉…1.2kg(12枚に切る)
塩、こしょう
葱…2切
砂糖…小さじ1
作り方…
材料を蒸鍋に入れて10分加熱する。小麦粉を振り入れて1.8Lの冷水を注ぎ、静かに加熱する。豚肉、羊肉の場合は2時間、牛肉は3時間、仔牛肉は1時間半。ここで面白いのは、おそらく英語の stewed porc… を「蒸物」と訳しているところ。作り方を見ると、ごくシンプルなラグゥで、蒸してはいない。原文にある「蒸鍋」もおそらく stew pan の訳だろう。
英語の stew の語源は古フランス語の estuver(現代フランス語 étuver エチュヴェだが、元々の意味は「蒸し風呂に入る、熱い風呂に入る」)なのだが、まるでそのことを踏まえたかのような訳語だ。あるいは当時の英語では stew に「蒸す」という意味があったのだろうか?
魯文の『西洋料理通』と同じ年に出版された敬学堂主人著『西洋料理指南』には「兎の葡萄酒煮」や牛舌の煮込みはあるが、シチューに類する言葉は見当らないようだ。ちなみに、この本は日本語で記された最初期の「カレー」の作り方で有名だ。
少し時代が下って1888年(明治21年)のマダーム・ブラン述、洋食庖人著『軽便西洋料理法指南』。
シチューソースの作り方
深い銅鍋に脂を少し入れ、弱火にかけて溶かす。ここに小麦粉をドロドロになるくらいまで入れ、へらで20〜30分間絶えずかき混ぜながら、だんだん色付いて濃い鳶色になるまで加熱する。ここに牛肉のスープ(ブイヨン)または二番のスープを注いで薄くのばして煮上げる。表面に浮かび上がってくる泡、脂をレードルですくい取ること。一般的なシチューはこのソースで煮て作る。この後に「牛肉シチウ」「鶏肉シチウ」「舌のシチウ」「搗肉(ミートボール)のシチウ」と続くが、基本的にはこの「超簡略版ソース・エスパニョル」とでも呼ぶべきもので肉を煮込む。
シチューは「シチウ」であって、漢字を使った訳語などはあてられていない。
いずれにしてもこんにち「シチュー」と日本で呼ばれているものとは趣が異なるように思う。
日清戦争後の1896年(明治29年)「日用百科全書 第13編」として刊行された『西洋料理法』(帝国ホテル庖丁長吉川兼吉が序文を寄せている)に収められた「スチユービーフ」も見ておこう。
牛肉2斤(1.2kg)を用意し、これを1寸(3cm)程の大きさに切って鍋に入れる。水を材料がかぶる位まで注ぎ、弱火で2時間煮る。鍋にしっかりと蓋をし、火から外してそのまま半日置く。再び火にかけて、ねぎ2個、パセリ4〜5茎を細かく切って加える。塩、こしょう、セイボリーを入れて半時間煮てから、トマトを加えて混ぜ、仕上げに小麦粉少々を水に溶いたものを混ぜて汁を濃くする。また、これに葡萄酒半杯を加えればより美味しい。
ブイヨンを使わないこと、とろみ付けは最後に行なっていること、トマトを加えること、が上で引用した2つと異なるポイントだろう。ただ、水をブイヨンに、水溶き小麦粉をルゥに置き換えたら、こんにちの家庭料理の一般的なシチューの作り方と大きな違いはない。とても現実的で合理的な手順になっている。
ところで、いわゆるホワイトシチューは高度成長期に学校給食と「シチューの素」によって全国的に普及したという。このあたりについてはハウス食品のサイト「シチュー資料館」がコンパクトにまとまっている。ただ、あくまでも日本の家庭料理を軸足に置いているためだろう、魯文などへの言及はない。
デクリネゾン再び
以前から気になっていたのだが、このサイトのアクセス解析によると妙に「デクリネゾン」の検索語でのアクセスが多い。ひょっとしたらと Google で確かめてみたら「食べ物の格変化」と題した随分前の投稿がかなり上位に表示されている。たんに「デクリネゾン」という料理用語についてさらっと説明しているだけの、正直なところ面白くもなんともない投稿だ。SEOなどと言って、いかにして Google で上位に表示されるかに腐心するのが馬鹿馬鹿しくなる程だ。
アクセスが増えるのはまことに結構なことなのだが、「デクリネゾン」などという検索語で、大して面白くもないエントリが上位に入っているというのは、裏を返せば「デクリネゾン」というカタカナ語の意味がわからない状況がしばしばあるということと、少なくとも日本語の WEB 上ではこの語のわかりやすく簡単な説明がほとんどない、ということを意味しているだろう。
後者については、べつに大した事ではない。WEB でなくとも、日本語の辞書、事典などがあるわけだから「知りたいなら調べればいい」と言えば済むことだ。
さて、気になるのは「デクリネゾン」などというおよそ一般にはあまり浸透していないであろうフランス語由来のカタカナ表現を目にするケースがそんなに多いのか? ということだ。
Google Analytics でこのサイトへアクセスした検索語を見ると、「デクリネゾン」が何と7.72%もある。それどころか、「デクリネゾン」を含む他の検索文字列が上位10のうち半数を占めている。「デグリネゾン」などという「バケット」や「ブータン」の仲間もあるが… さて、この解析ツールはあまり精度が高くないらしく、検索語不明が55%あるが、そのことを差し引いて考えてもちょっと多すぎるような気がする。
そもそも「デクリネゾン」などと言っても、トラディショナルな料理名でもなければ、特定の調理法を指しているわけでもない。たんに、ひとつの素材を何種類かの異なる仕立てで調理してまとめて提供するだけのことだ。
だから、たとえば
Déclinaison d’asperges vertes フランス語はいいとして、これに対する日本語の料理名として
グリーンアスパラガスを○種の調理法で あるいは
グリーンアスパラガスのバリエーション とか
グリーンアスパラガスづくしの一皿 などでいいわけだ。
似たような例で「エミエテ」という検索語でのアクセスも多い。このブログで「エミエテ」という語自体はこれまで使ったことが一度もなかったにもかかわらず。
検索語だけで想像するに、おそらくはフランス語の émietter (細かくする、過去分詞は同じ発音で émietté)だろう。たとえば
crabe émietté (ほぐし身にした蟹)
のように使う。料理用語としては珍しくもないが、正直なところ、日本語として一般的とは到底思えぬ。
それはともかく、déclinaison というフランス語自体、料理用語として定着する以前は文法用語(とりわけラテン語)と、物理・天文用語として使われていたに過ぎない。ラテン語はその昔、フランスの知識人のたしなみのようなものだった。だから、たとえばアスパラガスをただ茹でただけのもの、グリルしたもの、ピュレにしたもの etc. を一皿にのせて「アスパラガスのデクリネゾンでございます」と言って出せば、アスパラガス asperges という名詞が形態変化をしていると一見して分かるから、確かにラテン語の名詞が格変化(デクリネゾン)しているみたいだ、と、皿を出されたほうもにやりとする。この料理用語が déclinaison (名詞の変化)であって conjugaison (コンジュゲゾン、動詞の活用、主語によって動詞の形が変化すること)ではない理由はそこにあるのだろう。
そういう意味で、前にも書いたが、déclinaison という単語に「インテリっぽい」印象がかつてはあったかも知れない。
だが、難しい語、概念を誇らしげにむやみに濫用するのはスノビズムと言う。ひとは知らない言葉の多い文章は読みたがらないものだ。ましてや外国語由来のカタカナが多ければなおさらだ。場合によっては居心地の悪さを感じることだってあるかも知れない。僕の書く文章が「難しい」と言われ、敬遠されがちなのもそのせいだろう。自戒を込めて書き記しておく。
羊肉のラグゥ / アリコ
(承前)羊肉と蕪の煮込みが19世紀中頃からナヴァランと呼ばれるようになったことについては既に見たとおりだが、その前提としている「羊肉と蕪のラグゥという料理そのものはもっと古くからある」という事実については19世紀前半のカレームのレシピを引用しただけで、それ以上は踏み込まなかった。
僕が知るかぎり、羊肉と蕪の煮込みのもっとも古いレシピは17世紀ラ・ヴァレーヌ『フランス料理の本』に出ている「羊胸肉の煮込み」Poictrine de mouton en aricot だ。言うまでもなく aricot は haricot である。ところでこの場合の haricot は「いんげん豆」のことではない。「煮込み」のことだ。フランス語の大辞典 TLFi ではこの語は14世紀末の『ル・メナジエ・ド・パリ』に用例があると出ている。たしかにそのとおりで「羊肉のアリコ」が出ている。けれど、ギヨーム・ティレルの『ル・ヴィアンディエ』にも同じ料理が出ていて、こちらのほうが古い。というか、『ル・メナジエ・ド・パリ』のは『ル・ヴィアンディエ』をほぼそのまま写しただけのものだ。
さて、ラ・ヴァレーヌの「羊胸肉の煮込み」の作り方は…
羊胸肉をフライパンで炒め、鍋に入れてブイヨンを注ぎ、味付けする。肉に半ば火が通ったら、蕪を二つ割り(別の切り方でもいい)にして炒めて鍋に加える。豚背脂と小麦粉少々を炒めたもの、玉ねぎのみじん切り、ヴィネガー少々、ブーケガルニを加える。ソースが煮つまってから供する。
手順に多少の違いこそあれ、200年後のカレームの「羊肉と蕪のラグゥ」ととてもよく似ている。そもそもがシンプルな料理だからあまり変わりようがないという見方も出来るかも知れない。
「豚背脂と小麦粉少々を炒めたもの」は注目に値するだろう。後の「ルゥ」の原型とも呼ぶべきものが既に使われているのだ。もっとも、この小麦粉と油脂を炒めたものを17世紀にはルゥ roux とは呼んでいない。ついでだが、roux とはもともと「焦げたもの」のことで、その意味では「白いルゥ」roux blanc などは矛盾した表現ということになる。
もうひとつ注目しておきたいのは、料理名が en ragoust ではなく en aricot となっていることだ。既に書いたように、ラグゥという言葉は17世紀からのもので、ラ・ヴァレーヌではその用例が非常に多い。にもかかわらず、この羊肉の煮込みは en aricot という古い表現になっている。
ならば中世の「羊肉の煮込み」Haricot de mouton はどういうものだったか。『ル・メナジエ・ド・パリ』から引いておこう。
羊肉は適当な大きさに切り分け、茹でる。予め火を通しておいた玉ねぎの薄切りとともにラードで炒める。牛のブイヨンを注いでのばし、メース、パセリ、ヒソップ、セージを加えて煮る(ii-v-64)。
残念ながら蕪は使われていない。ただ、同じ『ル・メナジエ・ド・パリ』の蕪の項に「豚や牛、羊肉とともに煮る」(ii-v-54)と書かれているから、羊肉と蕪の組み合わせ自体は14世紀以前からあったのは確かだろう。
羊肉の「煮込み」を意味するアリコ haricot という語が、「いんげん豆」 haricot とまったく同じであることについても少し触れておこう。どうしてこのような現象が起きたかについてはいくつか説がある。少なくとも、アメリカ大陸原産のいんげん豆がイタリア経由でフランスにもたらされたのは16世紀のことだ。上で書いたように「羊肉の煮込み」のアリコのほうがずっと古い。
単純に、羊肉の煮込みにいんげん豆をよく用いたから、という説。もとからあったフランス語 haricot (古くは aricot)とは別に、豆のほうはアステカ語 ayacotl が語源だという説。いんげん豆の原産地の地名カルカッタ Calcutta を意味する Calicut がもとになったとする説(昔はアメリカ大陸とインドはしばしば混同された)… もっとも最後の説についてはかなり疑わしい。
いんげん豆はこんにちのフランスでもっとも好まれる豆類のひとつだが、中世から16世紀にかけては、もっぱらえんどう豆と蚕豆だった。いんげん豆がどのようにフランスの食文化に受け容れられ、根を下ろしたか、料理書のレヴェルで追ってみるのも面白いだろう。
ふたつのナヴァラン
羊肉のラグゥ(煮込み)はこんにち一般にナヴァラン navarinと呼ばれている。この名称の起源については主な説が2つある。
- 蕪 (navet) が語源。蕪を入れるのが定番だから。
- ギリシアの港ピュロスの別名 Navarin, Navarino が語源。1827年にイギリスとフランスの連合艦隊がトルコ、エジプト艦隊に勝利した「ナヴァリノの海戦」に由来する。
現在ひろく知られているのは(1)の説。ただ、素材を羊肉に限定するかについてはいくつか態度がある。ラルースの初版を現行版を比べても
- ラルース初版…ナヴァラン・ド・ムゥトンが標準。甲殻類や鶏のラグゥにナヴァランの名称を用いるのは誤り
- ラルース現行版…蕪が入っていれば甲殻類や鶏のラグゥでもナヴァランと呼んでいい
なお、ラルースは初版も現行版も(2)について言及さえしていない。
ファーヴルの「事典」(1884〜1895にかけて刊行)では、リトレというフランス語大辞典の navet の項目から中世フランス語 naviel の用例(蕪を入れた胸肉の煮込みに naviel が使われている)を引いて、navarin の語源だとしている。これが(1)の説として定着したように思われる。とはいえ、 naviel → navarin というのはちょっと無理があるような気もする… そもそも、ファーヴルの記述は料理名としての navarin という「語そのもの」と、羊肉と蕪のラグゥという「料理そのもの」の切り分けが曖昧な感じだ。
ファーヴルの説で面白いのは、もとは蕪と羊肉の煮込みだったのだが、パルマンティエによって普及したじゃがいもが蕪の代わりに入れられるようになったと書いてあるところか。たしかに、パースニップがじゃがいもに駆逐されてあまり食べられなくなったことを考えると、蕪→じゃがいも、の流れは自然かも知れない。
さて、フランス語辞書のレベルで言うと、navarin という単語の一般名詞としての用例は19世紀中頃からということになっている。羊肉と蕪のラグゥという料理そのものはもっと古くからあるわけだが、19世紀中頃に、その料理を「ナヴァラン」と呼ぶようになったということだ。
残念ながらラルースもファーヴルもそのあたりについては触れていないので、自分で調べてみることにする。
オドの La cuisinière de la campagne et de la ville という本は1830年代の初版から19世紀を通して何度も再版されたロングセラーで、増補改訂が繰り返された。版を重ねるごとに記述が増えているから、こういうことを調べるにはうってつけである。
この本の Haricot de mouton の項に、19世紀後半になると「こんにち使われている新しい料理名…ナヴァラン」Nouveau nom actuel: Navarin という記述が付け加えられる。僕が確認できた範囲では1858年以降1872年以前のこと。ポイントは「新しい」nouveau というところ。何の変哲もない Haricot de mouton という昔ながらの料理に Navarin という固有名詞を付けることで、ちょっとモダンな、おいしそうなイメージになったのか、いずれにしても「ナヴァラン」と呼ぶのが多少なりとも一般化した結果としての記述であるのは確かだろう。
つまり、羊と蕪(その他の野菜)の煮込みは、それまで Haricot de mouton / Ragoût de mouton / Hochepot などと呼ばれていたが、おそらく第2帝政期(1852〜1870)の頃、どういうわけか Navarin と呼ばれるようになったわけだ。
ではそれ以前に「ナヴァラン」という料理名がなかったのかというと、そういうわけでもない。カレームの『19世紀フランス料理』第2巻にルゥジェのナヴァラン(Grosse pièce de rougets à la Navarin, p.171)がある。エクルヴィスバターを加えたメルランのファルスでルゥジェを覆ったものに「オマールのラグゥ ナヴァラン」を合わせる。
カレームのラグゥ・フィナンシエールと同様に、オマールのラグゥ・ナヴァランもソースとガルニチュールの組み合わせに対してつけられた名称だ。19世紀のガルニチュールらしくクネルが入る。ただし、オマールのクネルではない。魚のクネル。魚のクネルとオマールのエスカロップそのほかがガルニチュールの要素。ソースは魚料理用ベシャメルをベースにしたもの。そもそもソースとガルニチュールのセットに過ぎないから長時間煮込んだりはしない。
カレームの『フランス料理』は1833年初版、つまり上記ふたつめの説にある1827年のナヴァリノの海戦と時間的にとても近い。だから、カレームが1827年の海戦を念頭にこのオマールのラグゥにナヴァランと名付けた可能性も否定はできない。
いずれにしても、まったく違う料理に「ナヴァラン」という名称が付けられているというだけのことだから、第2帝政期以降の「ナヴァラン=羊肉と蕪あるいはじゃがいものラグゥ」とカレームのラグゥは別のものとして切り離して考えるのがよさそうだ。
ところで、カレームでは羊と蕪のラグゥはそのまま、Ragoût ou haricot de mouton aux navets (羊と蕪のラグゥ / アリコ)という名称になっている(第4巻、p.35)。もっとも、第4巻はカレーム自身ではなくプリュムレが完成させたものだから、「カレームとプリュムレでは」という言い方のほうが適切かも知れない。
作り方は、適当な大きさに切った羊肉をバターで炒めて小麦粉を振り入れる。小麦粉が色付くまで炒めたらフォンを注ぎ、にんじん、玉ねぎ(+クローブ)、ブーケガルニを加えて煮る。蕪は鳩の卵くらいの大きさに形を整えてバターで炒め、砂糖を加える。ラグゥの煮汁を注いで煮る(原文は、蕪をラグゥに加えるのではなく、「ラグゥのソースを(トゥルネ)注いで煮る」となっている。蕪をラグゥの鍋に入れても結果は同じに思われるが…)。羊肉が柔らかく煮えたら、にんじん、玉ねぎ、ブーケガルニは取り除き、盛り付ける。
もちろん、現在の羊のナヴァランにとても近いのだが、ナヴァランと呼んではいない。こちらはオマールのラグゥ・ナヴァランなどとは違い、ことこと煮込んだラグゥである。
棚の飾りになっているだろうあの訳書のこと
ちょっとネガティヴな内容なのでぼかして書きます。お察しください。
翻訳の場合、理解できない、意味不明というのは、もちろん読み手があまりに読解力のない場合は仕方ないかも知れませんが、たいていの場合は誤訳です。翻訳者が間違えているんです。
翻訳をしていると誤訳はつきものです。ゼロにするのは非常に難しい。簡単なところでうっかりミスをしていたりというのもよくあります。だから翻訳者としては真摯に受けとめなくちゃいけないんだけど、それでもやっぱりいちいちあげつらわれるのは辛い。自分でもそういう自覚はあるから、黙っていたいとも思います。
実際、訳書の善し悪しは読者が決めるわけですから、他の翻訳者の仕事をあれこれ言うのは感心できることじゃないです。ただ、文学とか思想書の場合、読者は複数の訳を読んでくれますからそれでいいんですが、料理書だとどうも様子が違うみたいで、古いのがあるからもういらない、的な雰囲気なんですよね。ちゃんとした翻訳だったらもちろんいいんですが、あの訳書は誤訳が非常に多いので、そうもいかないように感じています。
あの訳書で勉強しようとした料理人さんは多いと思います。でも勉強にならなかったのではないでしょうか? だって、あまりに誤訳が多いし、意味不明の箇所多数、用語の統一もされていないのですから。
かなり致命的と思われる誤訳の例を少しだけ挙げておきます。
- poêlé を「フライパン焼き」としている箇所がある (原書では「フライパンで焼く」の意味で poêlé を使っているところは1箇所もない)
- barde, lard を「ベーコン」と誤訳している箇所がある (アメリカ料理、イギリス料理ではベーコンを使うものも多いですから、それにつられて疑問にも思わないかも知れませんが、原書に書いてあるのとはまったく違う結果になりますね)
- maigre の誤訳多数 (これはすごいです。ものすごい数の意味不明箇所の原因のひとつです。例えば魚のフォン (フュメ) で作ったジュレのことを「脂肪の少ない」としちゃっています)
「箇所がある」と書いたのは、正しく訳しているケースもあるからです。不思議なことに。あるひとつの語をおなじページで片方は正しい訳なのに、片方は明らかな誤訳という共存さえ見られる。ちゃんと校正したのか訝しくさえ思えてきます。
ここで「正しい」とか「誤訳」とか言っているのは原文の「解釈」のレベルじゃないです。単純に、翻訳者に知識があるかないかの問題なんです。非常に低次元です。
とはいえ、とても古い本ですから、そっとしておいてあげたほうがいいでしょうね。批判をはじめたらキリがないですが、僕もこれ以上は書きたくないのでやめておきます。ただ、もはやあの訳書は「読まない」ことを強くお薦めしたいです。「あの訳書を持ってるから、新しいのはいらない」なんて言わずに、せっかくですから新訳でお読みください。
プロの料理人がエスコフィエを読むべき理由
ヘストン・ブルメンタールがエスコフィエ『料理の手引き』の英訳 (2011年改装版) に寄せた序文から引用
料理人のなかには, クラシックな伝統から逃れたい, エスコフィエのような権威は保守的で時代遅れだからと否定したい誘惑にかられるひともいるだろう. 大きな間違いだ. […] 僕に言わせれば, 偉大な料理というのは伝統を壊すことではなく, 伝統をあらたな方向に導くことで産みだされる. 革命を起すことよりも進化させることが大事なんだ. (Escoffier, Le Guide Culinaire, trad. H. L. Cracknell and R. J. Kaufmann, John Wiley & Sons, New York, 5th ed., 2011 (1st ed. 1979) , p.vii.)
ちょっとくだけた感じに訳してみましたが, 最初に読んだとき, いいこと言うなぁ, とすごく感心したんですよ. ヘストン・ブルメンタールだからこその説得力. ツテがないんで「引用」しかできませんが, 許可をとって全文訳したいくらい素晴しい序文です.
さて…
古いものを壊して新しい創造をする…一見, 格好いいですが, ともすれば薄っぺらいものしかできないんですよね. そりゃ, もしかするとすごいものができるかも知れないけど, 博打でしょう.
クリエイティヴを志向するというのは「表現行為」をすることにほかなりません. 言語の場合で考えてみると, 表現をするためには語彙と文法が必要です. 語彙は多ければ多いほど豊かな表現ができるようになります. 正しい文法にのっとった表現じゃないと「単語の羅列」になってしまい, 伝わりません. 料理もおなじだと思います. 正しい文法と豊かな語彙を身につければそれだけ「自由に」表現できるようになります. そして料理の文法と語彙は『料理の手引き』のような古典で学ぶほかありません.
「車輪の再発明」という言葉があります. Wikipediaの定義を引用すると「広く受け入れられ確立されている技術や解決法を知らずに(または意図的に無視して)、同様のものを再び一から作ること」です. 「意図的に無視して」というのは教育の現場で帰納的な学習をさせる場合のはなしで, 通常は愚かなこと, 非効率なこととして否定的な意味で使います. 「既存のものの存在を知らない」「既存のものの意味を誤解している」ということです.
正直なところ, 料理の場合, これがけっこう多いように感じています. 伝聞なんですが, あるシェフが何年もかかって到達したというある技術, 『料理の手引き』できっちり説明されてるんです. そのシェフは「エスコフィエなんて古くて役に立たない」みたいなことを雑誌の記事でおっしゃっていたんで, きっと読んでいないのでしょう. 読んでいればもっと早く, ずっと楽に到達できるでしょうし, 「古くて役に立たない」なんて言うはずがないですから…
いまエスコフィエを読むことの意義は, トラディショナルな料理を作れるようになるためだけじゃなくて, より自由でクリエイティヴな仕事をするための「語彙と文法」を知ることでもあるのです. だから, これから上を目指す若い「未来のシェフ」にこそ読んでほしいと思います.