現在お買い物カゴには何も入っていません。
カテゴリー: フランス食文化史
アフォリズム風いくつか
- 知らないものは肯定も否定もできない
- 徒弟は褒められると成長するが、親方を褒めると慢心する
- 地図など持たずともどこへでも行けるが、行きたい場所へ行けるとはかぎらない
- 地図の見方を知らぬ者に地図を渡しても無駄だ
- Vous parlez bien le français. と言われるうちはフランス語ができないと思ったほうがいい
- 香具師は三角形の図式を好む
- 「本来の味」とは、そうであろうと予期あるいは期待される味のこと
- 個性的であろうとすると類型的になる
ラタトゥイユとは? という検索語を見て思ったこと
このサイトのアクセス統計を見ていると、6月以降「ラタトゥイユとは」の検索語でのアクセスが目立つ。
実際に Google で検索してみるとたしかにそこそこ上位にこのサイトが表示されている。どうやら「とは」とつけるのがポイントのようで、ストレートに「ラタトゥイユ」だけで検索してもこのサイトは出てこない。
「とはなどと言っていたら何も食べられないぞ1」と思うのだが、このキーワードにかぎらず「とは」を付けて検索するケースは多いようだ。
それはともかく、アクセス統計に表示されるほかの検索語もデクリネゾン、エミエテ、アラヴァプール、ナヴァラン、ラング・エカルラートなどフランス料理関連のものが多い。というかほとんどだ。
たしかに一時期フランス料理の話題ばかり書いていたし、それを消さずに残しているから当然なのだろうが、気まぐれにそういったキーワードで検索してみると、「日本に数多いるはずのフランス料理専門家はいったい何をしているのだろう?」と強く疑問に思う。
料理名や料理用語の意味、由来を知りたいというニーズはたしかに顕在化しているのに、きちんと説明しているサイトはどれだけあるのだろう。いや、書籍でも雑誌でもいい。あるいは、料理の専門家であり専門知識があるとすくなくとも世間的には認知されているはずの料理人やレストランのスタッフでもいい。
ラタトゥイユの由来はともかく、デクリネゾンだのエミエテだのの言葉はホテル、レストラン現場にいるプロくらいしか使わぬだろうから、そのひとたちがきちんと説明すればいいだけのことなのだ。
だが、その専門家であるはずの「プロ」の知識は実際のところどうなのか… いろいろ伝え聞いてはいるが、悪口めいてしまうだろうからここでは書かない。ただ、もっとしっかりしたほうがよかろうとは思う。すくなくともプロの料理人がこのサイトを見て「勉強になります」などと僕に言うようでは困りものだ。もっとも、「勉強になります」と言うのはまだ素直でよろしい。料理人の場合、たいていは料理人の言うことにしか耳を傾けないからだ。かくして独自解釈や独自理論が再生産されるのだろう。
いずれにしても勉強なんてものは自分でするものだし、基礎知識すらない「専門家」など許されるものではない。
©︎2015 Manabu GOTO
- 落語「千早振る」 ↩
濃緑がそんなにいいのか?
ほうれんそうやパセリが代表的だが、とかく濃緑が好まれる葉菜類は少なくない。そのほうがマーケットで評価され、高く売れるからだという。
種苗会社のカタログなどには「緑が濃い!」という文字がいたるところに踊り、生産者は濃緑に仕上がるように栽培をする。
濃緑を好むというのは心情的には理解できなくもない。ただ、サヴォイキャベツについて、玉の内部まで濃緑なのが欲しいなどと言われたときには呆れた。それも一度じゃない。流通や料理のプロから何度かそう言われたことがある。
サヴォイキャベツは結球野菜だ。結球野菜というのは、玉の内側の葉が日光に当たらないことによって自然に軟白されるのが特徴だ。光合成はもっぱら外葉がおこなっている。すべての葉が濃い緑色であることを期待するなら、結球野菜はそれに応えることができない。そんなに緑がよければサヴォイじゃなくてカーヴォロネーロを使えばいいじゃないか。
ブレットの写真。上は Blette blonde à carde blanche de Lyon というタイプ。ブロンドというだけに葉色はかなり薄い。下は一般的な Blette verte à carde blanche。こちらのほうが緑は圧倒的に濃くなる。僕はリヨンタイプのほうが好きなのだが、手持ちの種子は緑のほうが古く、そちらを先に使うことにしたので、今シーズンはいまのところリヨンタイプは蒔いていない。
パセリがお皿の飾りであるかぎり、皿の上でしおれてはならない?
パセリの間引きをした。品種は Alto (Vilmorin)。間引きだからろくにカールしていないし、風味もまだまだ弱いけれど、みじん切りにしたら充分愉しめた。
さて、掲題の迷文。『野菜園芸大百科』(農文協)の一節だ。パセリを収穫、出荷する際に気をつけるべき品質1についてである。
パセリがお皿の飾りであるかぎり、皿の上でしおれてはならない。そして適度の縮みと濃いグリーンをもち、病斑や食害痕があってはならない。(『野菜園芸大百科』、農文協、第14巻、p.396)
たしかに正しいことを言っているのだが、どうにも可笑しい。そして、軽々には笑いとばせない現実を思い出して暗澹とする。
パセリをたんなる装飾要素としてしか捉えていない愚については言うまい。世の中にはパセリを食べものではないと思っている気の毒なひともいるようだが…
それよりも「しおれてはならない」のところだ。これは生産者に要求すべきことなのか? 流通業者や調理するひとの問題のほうが大きいのではないか? 「ちょっとやそっとではしおれない」しかも「濃いグリーン」のパセリを要求されたら、若い葉ではなくやや老化気味の葉を出荷するに決まっている。そういう葉は硬いし苦味も強い。だが丈夫だ。
どんな野菜にも収穫適期というのがある。美味しさのピークがある。品目、季節によってちがうが、ほんの数日だったりする。パセリもそうだ。いい具合に縮れていてしかも柔らかい葉を収穫するのがいい。鮮烈な香りと適度な苦味、口に障らない程度のテクスチュアが愉しめる。
そういう葉は軟弱だ。ちょっとやそっとでしおれてしまうかもしれない。調理をするひとが雑な洗い方をすればつぶれたりするかもしれない。
なべて野菜というのはベストの美味しさを提供するのがまことに難しい。パセリは、いい頃合いの葉を使う直前に摘んでくるのがいちばんいい。それが出来ずともせめて、洗うのも刻むのも皿にのせる直前にするといい。
- 生産、流通現場で言われる、野菜の「品質」という言葉は事実上「見た目のよさ」と同義と言っていいだろう。 ↩
オマールのラグゥ(ピエール・ド・リューヌ)
17世紀のピエール・ド・リューヌ『新・料理の本』Pierre de Lune, Le nouveau cuisinier, 1660. から。フランス語で書かれたオマールのレシピとしてはもっとも古いもののひとつ。
オマールは小さな布で包んで動けないようにし、陶製の鍋に入れる。これをオーヴンに入れて加熱する。火が通ったらオマールの身を取り出し、切り分ける。フライパンにバターを熱し、細かく刻んだ香草、シブゥル1本を切らずに加えてオマールを炒める。塩、こしょう、ナツメグで調味する。オマールのみそとローズヴィネガーまたはオレンジ果汁を合わせてソースにする。
Bouchez le homard avec un petit linge, et le mettez dans une terrine, le faites cuire au four, étant cuit vous tirerez la chair et la mettrez par morceaux, la passerez à la poêle avec beurre, fines herbes bien menues, une ciboule entière, assaisonnez de sel, poivre, muscade, faites sauce avec le dedans du homard, un filet de vinaigre rosat ou jus d’orange. (pp.117-118)
オリヴィエ・ド・セール『農業経営論』第1部第1章の翻訳(3)
経験的なもの
ここまで書いたことは土壌の力を示す指標ではある。だが、確かさという点では経験的なもののほうが勝っている。実際のところ土の色は、ほぼすべての色において、相応の収量になるだろうという期待を裏切ることがある。馬でも犬でも、どんな毛色のものにもいい悪いがあるのと同じだ。これから取得しようという土地で平年どのくらいの収量となるのか正確に分からないのであれば、次の方法をとれば間違いない。植えてあるものでも自生しているものでも、そこに生えている木々を見るのだ。
生えている木々を見る
木々の大小、美醜、多寡からその土地がどのくらい肥沃かどうか判断できる。なかでも、野生の洋梨、りんご、プラムの木が生えていれば麦に適した土壌だと言える。さらに、小麦に適しているのはプラムの木がたくさん生えている土壌だ。りんごの木は粘土質であれ砂質であれいい土壌に見られるものだから、プラムの木に混じってりんごの木が生えていればライ麦に適している。
あざみ
あるいはこういう方法もある。あざみは洋梨の木に相当すると考える。
羊歯(しだ)
羊歯はりんごの木に相当する。あざみは粘土質の土壌に強く、羊歯は砂質に耐える。小麦、ライ麦の性質も同様なのだ。
気温
気温も目安になる。寒いよりは暖かいほうが小麦に適していて、暖かいよりは寒いほうがライ麦に向いていると判断できるのだ。
草
自生している草も目安として役立つ。獣が好んで食べる草が価値のない土地にたくさん生えることはけっしてないからだ。これは木が生えていない開けた土地でしか使えない方法だ。
地勢
ここで地勢について述べておく。地勢は土地の価値に大きく影響を与えるからだ。土地は必ず、平野、丘陵、山地の3種のどれかだ。平野も山地も両極端という点で丘陵地には劣る。丘陵地は平野か山地のどちらかの性質を帯びているから、中間的なものと言える。だから、その地方が温暖で、いい地所であるなら、丘陵地はいろいろな種類の作物を生産するのに適している。丘陵地は余程のことがない限りは収穫を得られないことはないのだ。だから、他の地勢よりも好ましく、欠点がないと言える。風や泥水が山地と平野では大きな被害をもたらすが、丘陵地ではそれ程でもない。
山地
山地で不都合なく出来るのは林業と牧羊だけだ。この2つについてはむしろ適していると言える。けれども、耕作したり、ぶどうの木や果樹を植えて、短期間で多量の収穫を得るのは難しい。どんなによく耕した圃場でも、雨によって土壌養分が流亡しやすく、土壌水分もすぐに失なわれてしまう。だから俗にこう言う。
傾いた土地には
金を置くな平野
逆に、地面に何もない、あまりに平らな圃場は、長い間水を溜めてしまうので耕作するのに具合が悪い。土壌水分が多すぎると上手く耕せないし、捗らないのだ。収穫物も質、量ともに明らかに劣る。
丘陵地
そのようなわけで、平野や山地よりも悪天候に強い丘陵地のほうが好ましいことはよく知られている。だからこそ、ブリー地方は高く評価されているのだ。ボース地方と比べて立派な屋敷が多いことからも、平野より丘陵地のほうがずっと昔からいかに求められてきたかが分かる。
以上が土を知るための一般的な方法である。(第1章終わり)
カレーム「米のポタージュ 公妃風」
半年以上前に書いたものだが、何を思ったのか「非公開」設定になっていたので「公開」にしておく。
米のポタージュ 公妃風
標準的なコンソメを作る。浮き脂を取り除き、布で漉す。下茹でしておいたカロリーヌ米と鶏2羽1をポタージュ用鍋に入れ、コンソメの半量を注ぐ。レタスの葉を束ねたものとセルフイユを加え、¾時間煮る。鶏を取り出し、冷ましてから皮を剥ぐ。米がよく煮えたらしっかりとすり潰す。これにコンソメの残り半量を合わせ、布で漉す。提供直前に、細かく切った鶏肉、半割りにしたレチュの芯のブレゼ6個分、セルフイユひとつまみ、塩茹でしたプティポワをレードル2杯、ポタージュ用の器に盛り込み、上記のポタージュを注ぐ。(t.1, p.104)
原文の料理名は Potage de crème de riz à la princesse (ポタージュ ド クレーム ド リ ア ラ プランセス)、直訳すると「米のクリームのポタージュ 公妃風」だが、冗長なのでたんに「米のポタージュ 公妃風」とした。
さて、このレシピは一部の材料しか分量が記されていない。古い料理書を読んでいると分量がわからないのはよくあることだ。カレームの場合は概ね10人分を一度に作ると考えるといいだろう。コンソメの作り方と米の分量については、他に米のポタージュのレシピがあるので参考にすればいい。「米のポタージュ ロワイヤル」(Potage de crème de riz à la royale, p.99) ではカロリーヌ米6オンスとなっている。1オンスは約30gなので180gということになる。ポタージュにとろみを付けるためのものだから、ピラフのように炊き込むイメージとはちょっと違う。
同じく「米のポタージュ ロワイヤル」のコンソメは、鶏2羽、仔牛の脛1本をポタージュ用鍋に入れてブイヨンを注ぎ、にんじん1、かぶ1、玉ねぎ1、セロリ½株、ポワロー2を加えて5〜6時間煮る。浮き脂を取り除き、布で漉す(pp.99〜100)となっている。
なお、レチュのブレゼについては、日本で一般的なクリスプヘッドタイプのレタスやサラダ菜ではそもそもブレゼに耐えられないので注意。シュクリーヌもしくはレチュの名称で輸入されているものを使うことになるだろう。
- 原文 poulets à la reine プゥレ・レーヌ poulet reine とも。若鶏と肥鶏の間の大きさのもの。『ラルース・ガストロノミック』初版では、孵化後数週間のものをプゥサン poussin、3〜4ヶ月生育させた450g〜600gのものをプゥレ・ヌゥヴォーと呼ぶ。その後、600〜900gに生育したものがプゥレ・ド・グラン poulet de grain、夏の終わりごろの1,000〜1,800gのものをプゥレ・レーヌ、さらに1,800g〜2kgのものをプゥレ・グラ poulet gras と分類している。肥鶏(プゥラルド poularde)はガバージュ(強制給餌)等により肥育したもので、1.8kg〜3kg程度という。 ↩
カレームのナヴァラン
カレーム『19世紀フランス料理』L’art de la cuisine française au XIXe siècle では、ナヴァランという名称の料理が羊肉の煮込みではなく、オマールのラグゥであることは前に記した。以下、実際のレシピを見ていくことにする。
オマールのエスカロップのラグゥ ナヴァラン
オマールはシャンパーニュで茹で、身をエスカロップに切る。マッシュルームのピュレを加えたうなぎのクネル(小)を12個作り、魚のブイヨン1でポシェする。魚料理用ソース・フランセーズを作る。ここにマッシュルーム2籠と牡蠣(身のみ)2ダースを加える。ラグゥを煮立たせてから、上でポシェしたクネルの水気を切って皿に盛り、ラグゥを覆いかける。オマールの身は溶かしバターを入れたソテ鍋で弱火で温め、ラグゥの上に数切れずつまとめて盛り付ける。ソースの残りはソース入れに移して別添で供する。(t.3, p.212)
エスカロップと言えば仔牛だが、魚介についてもこの表現は用いられる。基本的には「薄切り」だが、薄さにこだわってはいけない。仔牛のエスカロップだって厚さ1〜2cmには切る。仔牛肉の場合、ぺらぺらに薄いのは叩いてのばしているから。エスカロップという切り方のポイントは「楕円形」であること。だから、オマールの場合は斜め切りにして多少なりとも面積を出すようにする場合が多いようだ。
エスカロップの語源は écale (エカール 胡桃の殻)。楕円形であるというのは、その意味を引きずっているためだろうか。現実にはたんに薄く切っただけで名状しがたい形のものであってもエスカロップと呼ぶことは多いが、本来は楕円形という一種の約束事があるのは頭に入れておきたいところ。
このレシピで注意したいのは、このラグゥは必ずしも「煮込み」とは言えないことと、必ずしもそれ自体で完結した皿になるわけではない、ということだ。既に書いたように、カレームの場合、ラグゥはガルニチュールとソースを合わせたものと考えるのが基本。エスコフィエだとソースとガルニチュールで章を分けてそれぞれに記述するところだ。つまり、これは何らかのメインとなる食材に添えるソースとガルニチュールということになる。実際、「ルゥジェのナヴァラン」 Grosse pièce de rougets à la Navarin という料理が第2巻にある(p.171)。エクルヴィスバターを加えたメルランのファルスでルゥジェを覆い、このオマールのラグゥ ナヴァランを合わせたものだ。
とはいえ、すぐ後の時代、19世紀後半になるとオマール・アメリケーヌという料理が大流行する。これも一種のラグゥだが、もちろん独立した料理として扱われた。だから、カレームのラグゥについても、原典ではガルニチュール+ソース的な位置付けだったということさえ踏まえていればいいだろう。
なお、エスコフィエはオマール・アメリケーヌを独立した一皿としてディナーで提供するよりは、舌びらめなどに添えるガルニチュールにするとよい、という内容を『料理の手引き』第1章、ソース・アメリケーヌの項で書いている。カレームの時代に逆戻りしているようで面白い。
さて、オマールのナヴァランのレシピを理解するには、ソース・フランセーズなるものを見ておかねばならない。すると、魚料理用ベシャメルソースのレシピにも目を通すことになる。
魚料理用ソース・フランセーズ
湯煎鍋に魚料理用ベシャメルソースを入れ、沸騰寸前になったら、にんにく1片、おろしたナツメグ少々、マッシュルームエッセンスを加える。提供直前にひと煮立ちさせたら、エクルヴィスバターを加えてロゼ色に仕上げる。(t.3, p.57)
魚料理用ベシャメルソース
中位の大きさのバルビュ21尾の皮を剥いてフィレにおろし、小さめのエスカロップに切る。大きめのソテ鍋にエスカロップに切ったバルビュの身と、イジニー産バター12オンス3、玉ねぎ2個、にんじん2本、マッシュルーム2籠、根パセリ4本 (野菜はいずれも薄切りにしておく)を入れ、ローリエ少々、タイム少々、バジル少々、メース少々、粗く砕いたこしょう少々、おろしたナツメグ少々を加える。鍋を弱火にかけ、木べらで混ぜながら10分間加熱する。小麦粉レードル2杯を加え、完全に混ぜ合わせる。生クリーム3パント4を少しずつ加えていく。25分間弱火で煮詰めるが目を離さないこと。布で絞り漉し、陶製の器に入れておく。(第3巻、p.32)
ベシャメルソースを小麦粉+バター+玉ねぎ+牛乳+香草、くらいに思っていると大きく間違うことになる。たしかにエスコフィエにはそういうのも出ている。だが、それはあくまでも「簡易版」であって、きちんと作る場合、肉料理用なら仔牛肉を使うことになっている。そもそもエスコフィエのベシャメルはあくまでも基本ソース、つまり派生ソースに展開するためのベースに過ぎないことを忘れてはいけない。単体で使うことは想定されていないと考えるべきものだ。
カレームの場合もベシャメルは「基本ソース」なのだが、それでもかなり贅沢なものだ。魚料理用ではない「通常の」ベシャメルのレシピも見ておくべきところだが、ヴルゥテおよびソース・アルマンドとまとめて記述された長いものであるため、今回は割愛する。ベシャメルはヴルゥテを作る作業の途中で派生するものとして説明されていることだけ記しておく。
ブレットとストロベリースピナッチ
Le Jardinage d’Antoine Mizauld médecin と Le jardin médicinal という本を見つけた。タイトルを日本語にするとそれぞれ『医師アントワーヌ・ミゾーの菜園帳』『薬用菜園』といった感じだろうか。どちらも、もともとはアントワーヌ・ミゾーという医師がラテン語で書いたもののフランス語訳で、1578年に出版されたらしい。
その、『薬用菜園』のほうをぱらぱらと見ていたら、僕が愛してやまない野菜、ブレットについての記述が目にとまった。ところがどうもおかしい。bette (ベットつまりブレットとビーツ、このふたつの野菜はもともとは同じものだった) の節のあとに blette があらためて節として立てられている。後者の記述は
De la Blette ou Saune, et ses remèdes
On tient la Saune pour un herbage inutile à l’estomac, et qui renverse tellement le ventre, qu’aucuns en prennent cette maladie qu’on appelle Cholère, et flux de ventre, vomissements, avec grands tourments de boyaux, à cause qu’elle émeut l’humeur bilieux …ざんねんながら手元の辞書では確認できなかったが、別名ソーヌと言うらしい。胃には何ら薬効はないが、腹の病気によく効くため、コレラ、下痢、嘔吐、そのほか腸の激しい痛みに対して用いる、とある。
ここまででもやや疑問なのだが、何しろ400年以上昔の本だし、植物の薬効については現代だって眉唾ものが少なくないと思いつつ読み進めると、数行後に
Et de là est venu que Pline la nomme herbage fade, sans goût, et sans acrimonie aucune […] (id.)
「風味も味もなければ、とげとげしいところもない草、と名づけられた」とある。そんなはずはない、こんにちブレットと呼ばれている野菜は、葉菜のなかでもっとも風味ゆたかでしっかりした味のあるもののひとつだ。
そう、ここでブレットと呼んでいるのはラテン語で Blitum、代表的なものは Blitum capitatum、いわゆるストロベリースピナッチのことだ。こんにちのフランス語では Arroche fraise (アロッシュ・フレーズ) 。すっかり忘れていたのだが、Blette capitée (ブレット・カピテ) とも言う。なお、一般にアロッシュと呼んでいるのは Atriplex hortensis フランス語は arroche des jardins (アロッシュ・デ・ジャルダン)、和名ヤマホウレンソウ。
Blitum capitatum さて、ブレットではないブレット… どうしてこんなことになっているか…
Mais il se faut bien prendre garde, que les Anciens ont confondu le Blitum qui est notre Blette ou Saune, avec Beta qui est notre Porée ou Reparée […] (p.65)
「昔の人たちが Blitum つまりブレット、ソーヌと、Beta つまりポレ、ルパレを混同したことに注意」とある。Beta はいまでいうブレット、ビーツのことだ。フランス語ではなくラテン語の時代にこの混乱が起きたのだという。
実際のところ、中世の料理書では bette, porée という表現はたくさん出てくるが、blette という語は見た記憶がない。それに、ストロベリースピナッチのごときはたんに herbes (エルブ 草、葉菜) としてまとめて呼称される類のものだろうと思う。
ブレットとビーツについては、遅くとも16世紀ごろには葉を利用するブレットと根を利用するビーツに品種分化したと言われている。このあたりのことは書きだすとキリがないので稿をあらためたい。