中世(16)

孔雀のルヴェチュ

p.XVI(1)

この豪華な献立からは、野菜料理が重視されなかったことがわかる。我々の祖先は野菜料理はたまにしか食べなかったのだ1。しかも、えんどう豆、そら豆2、ポワロー、ビーツ3くらいしか使わなかった。野菜はもっぱらピュレかポタージュにして供されるが、「メ」と上手く調和してはいなかった。ところで、食器や皿のしつらえについては、こんにち我々が想像する以上に客の興味を引いたのだった。宴の終りには、皿の中身よりも「アントルメ4」の時間に見た、さまざまな仕掛け、戦の寸劇、ダンスなどの余興のことを覚えているに過ぎなかった。年代記作者も回想録の作者も、宴席のそれ以外のディテールについては書き残してはいない。また、立派な正餐の席では必ず、白鳥や孔雀の「ルヴェチュ」【原注1】が供された。孔雀を切り分ける前に、屋敷の主人が大胆に戦うことの誓いや愛の誓いの言葉を述べることもあり、「孔雀の誓い」と呼ばれた。これによってますます宴たけなわとなるのだった。

【原注1】孔雀のルヴェチュはアントルメの時に、大きな菓子やジュレとともに供された。孔雀ではなく豚や仔牛丸ごと一頭のローストが供されることもあった。アントルメの後、フレッシュな果物やコンポートといったデザートが運ばれて来る。最後に、イポクラをかけた焼き菓子が供された。飲み物は、デザートまでは普通の赤または白ワインで、食事が終わると「エピス・デ・シャンブルや砂糖菓子、ジャムなどを食べながら香辛料入りの火を通したワインを飲んだ。この最後のサーヴィスを「イスュ」と呼んだ。以下にタイユヴァンから「白鳥のルヴェチュ」のレシピを引用しておく。「白鳥は(羽を毟らずに)肩の間に管を刺して膨らませ、腹の皮を縦に切り開く。首は肩のあたりで切り、胴の皮を完全に剥ぐ。手羽と足はつけたままにしておく。ローストし、火が通ったら溶き卵などを塗って黄金色に焼く。先に剥いだ皮をかぶせ、首はまっすぐ立てるか、平らに置く。ポワーヴル・ジョネ5で食する」。

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中世(15)

中世の宴席

p.XV(3-8)

16世紀中頃まで、料理は今日のようにそれぞれ別の皿に盛られるのではなく、1回のサーヴィス1で供される料理をいくつも、一枚の大皿にまとめて盛られていた。これを当時は「メ」metsと呼んでいた。だから、いろんなローストを皿に山盛りにしたのが一つの「メ」だったわけで、ソース各種が別添で供されたのだった。一枚の大きな深皿に肉料理と魚料理と野菜料理を山のように盛り込むことが当たり前に行なわれていた。このひどいサルミゴンディ2状態の皿も「メ」と呼ばれていた。つまり中世では「メ」という言葉は(後世の)「サーヴィス」と同じ意味だったのだ。

以下は『ル・メナジエ・ド・パリ』に出ている、4回のサーヴィスからなる正餐(ディネ)3の献立である。明らかに、それぞれの「メ」を構成する料理が一つにまとめられている。

第1の「メ」…牛肉のパテとリソール4、黒いポレ5、八つ目うなぎのグラヴェ6、肉のドイツ風ブルーエ、肉たっぷりのブルーエ、魚の白いソース、アルブゥラートル。

第2の「メ」…肉のロティ、海水魚、淡水魚、肉のクルトネ7、ラニオール8、仔兎と小鳥たっぷりのロゼ9 熱いソース、トゥルト。

第3の「メ」…タンシュ10 パン添え、ブラン・マンジェ、レ・ラルデ11、猪の尾 熱いソース、去勢鶏 ソース・ドディーヌ、ブレーム12と鮭のパテ、プリ13の水煮、レシュフリート14とダリオル。

第4の「メ」…フロマンテ15、猟獣、ドリュール16、魚のロースト、フロワド・ソージュ17、裏返しにしたうなぎ18、魚のジュレ、去勢鶏のパテ【原注1】。

【原注1】サン・マルタン・デ・シャンの聖具納室係補の勘定書きから、1430年時点のブルジョワの正餐の内容と、当時の物価を知ることができる。1430年10月4日の正餐、列席者はギヨーム・アントラン氏夫人、ジャン・リュリエ氏夫人、ジャック・ブロラール氏夫人、ジャン・フゥルコー氏夫人。費用は以下のとおり。山うずら2羽、雉1羽、鳩4羽…13ソル。若い去勢鶏3羽…15ソル。野兎1羽…6ソル。仔牛胸肉(半分はポタージュ用、半分はロティ)…4ソル。鯉1尾、ブロシェ191尾、うなぎ1尾…22ソル。食材の運び賃2回分…8ドゥニエ。ロティに用いる炭…16ドゥニエ。牛すね肉…15ドゥニエ。ソース用ぶどう果汁…12ドゥニエ。シヴェ用のサフラン…8ドゥニエ。食事の始めに供するのと、ソースに用いるぶどう…12ドゥニエ。洋梨…8ドゥニエ。シヴェに用いる玉ねぎ…2ドゥニエ。細かい香辛料…12ドゥニエ。ソース・ヴェルトとソース・カムリーヌ…12ドゥニエ。ロティなどに用いる豚背脂…12ドゥニエ。ゴイエール202つ…6ソル4ドゥニエ。イポクラ211.5L…9ソル。合計…4リーヴル6ソル2ドゥニエ。ほかに、パン1ダース…4ソル。ワイン8カルト(20パント22)…17ソル9ドゥニエ。

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中世(14)

p.XIV(3)=p.XV(1)

ピション男爵による『ル・メナジエ・ド・パリ』校訂版には付録として、ド・ルーベ侯の料理人であったオタンなる人物が書き送ったとされる「肉、魚のいろいろなブルーエの作りかた」が収められている。トゥルヌソル1を加えて作る「桃の花のブルーエ2」のごときひどく珍妙なソースは別として、オタンはクレーム・キュイットのレシピ3もいくつか記しており、それらは覚えておくだけの価値があるものだ。

p.XV(2)

15世紀なると、デグモン家の料理長を勤めていたらしいタブロなる人物が(タイユヴァンとは別の)『ル・ヴィアンディエ』を著した。これは手稿本のまま出版されていない4。『メナジエ』の作者同様、タブロもタイユヴァンや『料理全書』から多くを借用していて、彼自身の調理がどんなものだったかを捉えることはできない。が、タブロは実に見事にレシピの途中に自身の考えを差し挟んでいる。それに、「タブロにこの本は完璧だと伝え給え。この書の作者と聖母マリアに栄えあれ。アヴェ・マリア!」などという無邪気な文言が末尾にあるのを見ると、ひどいブルゥエのレシピも許せなくもないという気分になる。

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中世(13)

p.XIV(2)

オリジナルの手稿本(原注1)では、グリゼリディスの物語1、ジャン・ブリュイヤンによる富と貧困についての長詩の後に、とても念入りに書かれた料理のページが続く。これはタイユヴァンと『料理全書』が下敷になっている。老ブルジョワは先人のレシピに手を加え、若妻が使いやすいよう注釈をつけている。タイユヴァンとは砂糖に対する嗜好が違う2とはいえ、香辛料の使用については負けずとも劣らない。いくつか面白いこともしている。例えば、エクルヴィスと魚を油で揚げる(エクルヴィスのグラヴェ3)とか、「アルブゥラートル」なるチーズ入りタルトの両面を同時に焼こうと、料理が入っているフライパンの上に、火を起こした炭を入れたフライパンをのせる、など。とはいえ、このアマチュア料理人の姿は、あの時代の食道楽としてはそんなに馬鹿にしたものではないように思われる。彼はこう書いている。「兎は、冬は一週間くらい経ったものが美味しい。夏は4日ほどがいいが、日光に当たらないようにしてやること」。古代ローマの農学者テレンティウス・ウァロ4の著作にならい、「野兎の年齢は、尻尾の下の穴の数と年齢が同じだから、それを見れば分かる」と述べる。「鯉はよく火を通すべきだ。さもなくば食べるのは危険だ。黄色や赤っぽくない、白い鱗の鯉は、水のいいところのものだ。目玉が大きく、頭から飛び出しそうになっていて、口蓋と舌が柔く貼り付いているのは脂が多い…。森鳩は冬が美味…。鱒は冬が美味しく、サーモントラウトは夏。鱒でもっとも美味しいのは尾の方で、鯉の場合は頭。アローズ5は3月にシーズンとなる」。

(原注1)『ル・メナジエ・ド・パリ』は15世紀の手稿本が3つ伝わっている。そのうち2つはブルゴーニュ公爵家所蔵で、ピション男爵の校訂により1846年に出版された。

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中世(12)

p.XIII(4)=p.XIV(1)

『ル・メナジエ・ド・パリ』は(全体としては料理書ではなく1)家政書だ。書かれたのは1392年6月から1394年9月の間。著者はかなり高齢の、パリの裕福なブルジョワで、両親のいない15才の娘を嫁に娶ったのだった。このブルジョワは多くの従僕を抱えており、その筆頭には家令またはメートル・ドテルにあたる「歳出係ジャン」と、若妻に付き人として従う「アニェス・ラ・ベギーヌ2」がいた。老ブルジョワは幼な妻にこう書き与える。「小間使いを雇う場合は、以前どんな所にいたのか、実際に従僕をそこに行かせ、口が軽かったり酒飲みでないかなどを調べさせてからにしなさい。(略)15〜20才くらいの小間使いを雇う場合には、その年頃の娘というのはお馬鹿で世間知らずなのだから、自分の部屋の近くで寝かせるようにしなさい。窓が低いところにはない、なおかつ、通りに面していない衣装部屋か寝室を使わせること。(略)従者が病気になった場合は、他の事は後回しにして、心から従者を思いやること。快方に向かうよう細かく気を配ってやりなさい…」

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中世(11)

p.XIII(3)

1306年の匿名の著者1と同様、タイユヴァンは、どんな料理でも畜肉、家禽をあらかじめ茹でてから使う。ブルーエ、シヴェ、ラグーは牛のブイヨンにとろみ付けのためのパン2を加えて煮る。砂糖、香辛料、イゾップ、パセリ、セージ、カルダモン3をふんだんに使う。既に湯せんの使用が認められる。あるレシピでは面白い使い方をしている。液体を加えずに鶏を湯せんにかけてたっぷり肉汁を出させ、それを病の床に伏せている者に供するというのだ。ソースはあまりヴァリエーションがない。肉と魚は、煮たものであれ焼いたものであれ、火を通さずに作るソース・カムリーヌか、ミルク4やヴェルジュを加えて火を通して作るソース・ジャンスで食する。ドディーヌ5、どんなに我慢づよいスパルタ人さえもうんざりさせるような6四旬節用フランのごとき料理の一方で、タルムーズ、ブルボン風タルト、卵黄と栗を詰めた仔豚のローストもある。これらは現代でも洗練された味わいと言えるだろう。

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中世(10)

p.XII(6)

タイユヴァンの著書は15世紀に5回出版された1。いずれも出版地、年の記載はない。最も古いものは1490年ごろ。題名は…

p.XII(7)=p.XIII(1)

『国王陛下の厨房を司るタイユヴァンにより、煮込み、ロティ、海水魚、淡水魚、ソース、香辛料その他必要な食物の扱い方、調理法を余すところなく著したル・ヴィアンディエ2、以下に始まる…(原注1)』

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中世(9)

p.XII(3)

ギヨーム・ティレルはまず、王妃ジャンヌ・デヴルー付きの厨房見習いとなり、のちにフィリップ・ド・ヴァロワ、次にヴィエノワ王太子、さらにノルマンディ公に厨士として仕える。1373年にはシャルル5世によって国王付き料理長(エキュイエ1・ド・キュイジーヌ)に任命される。『ル・ヴィアンディエ』の執筆はこの時期(1)。シャルル6世の治世には料理担当侍従長となり、1392年に「メートル・デ・ガルニゾン2」に叙せられる。文献によると、タイユヴァンの没年は1395年ごろである。サンジェルマン・アン・レの近く、ノートルダム・デヌモン修道院に葬られた。タイユヴァンは生前、そこに礼拝堂を建立したのだった。

(1)ピション男爵は、『ル・ヴィアンディエ』の執筆時期を1380年以前と考えている。

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中世(7)

p.XII(1)

憶測はこのくらいにしておこう。確かなことは、ピドゥが先人達のレシピを多少なりとも進化させ、よりわかりやすいものにしようとしたことだ。バターではなく牛脂あるいは去勢鶏の脂を用い、バターはクレーム・ウスュを作るのにしか用いられていない。塩はほとんど使われていないが、ちょうざめ、ジャコバン風スープ、去勢鶏のロースト、ソース・ド・トライゾンには「大量の」香辛料と砂糖が使われる。パンは重要な役割を果していて、生のパンの身を細かく刻んだ肉に混ぜ込んだり、焼いてから牛のブイヨンや、ヴェルジュを加えた「真紅のワイン」に浸して使う。野菜料理のレシピはほとんどない。その代り、菓子のレシピは多く、ダリオル1、タルムーズ2、ジャコバン風タルト(卵黄を混ぜ込み、通常はオレンジの香りづけをした生地でフロマージュ・グラ3を包んだ焼き菓子)のように、17世紀になってもポピュラーなものもあった。ウブロワイエ4はこれらの菓子と、ウブリ、エショデ、カス・ミュゾ、プティ・シューなどを籠いっぱいに積み上げ、通りを売り歩いていた。

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