現在お買い物カゴには何も入っていません。
投稿者: Manabu GOTO
中世(9)
p.XII(3)
ギヨーム・ティレルはまず、王妃ジャンヌ・デヴルー付きの厨房見習いとなり、のちにフィリップ・ド・ヴァロワ、次にヴィエノワ王太子、さらにノルマンディ公に厨士として仕える。1373年にはシャルル5世によって国王付き料理長(エキュイエ1・ド・キュイジーヌ)に任命される。『ル・ヴィアンディエ』の執筆はこの時期(1)。シャルル6世の治世には料理担当侍従長となり、1392年に「メートル・デ・ガルニゾン2」に叙せられる。文献によると、タイユヴァンの没年は1395年ごろである。サンジェルマン・アン・レの近く、ノートルダム・デヌモン修道院に葬られた。タイユヴァンは生前、そこに礼拝堂を建立したのだった。
(1)ピション男爵は、『ル・ヴィアンディエ』の執筆時期を1380年以前と考えている。
中世(7)
p.XII(1)
憶測はこのくらいにしておこう。確かなことは、ピドゥが先人達のレシピを多少なりとも進化させ、よりわかりやすいものにしようとしたことだ。バターではなく牛脂あるいは去勢鶏の脂を用い、バターはクレーム・ウスュを作るのにしか用いられていない。塩はほとんど使われていないが、ちょうざめ、ジャコバン風スープ、去勢鶏のロースト、ソース・ド・トライゾンには「大量の」香辛料と砂糖が使われる。パンは重要な役割を果していて、生のパンの身を細かく刻んだ肉に混ぜ込んだり、焼いてから牛のブイヨンや、ヴェルジュを加えた「真紅のワイン」に浸して使う。野菜料理のレシピはほとんどない。その代り、菓子のレシピは多く、ダリオル1、タルムーズ2、ジャコバン風タルト(卵黄を混ぜ込み、通常はオレンジの香りづけをした生地でフロマージュ・グラ3を包んだ焼き菓子)のように、17世紀になってもポピュラーなものもあった。ウブロワイエ4はこれらの菓子と、ウブリ、エショデ、カス・ミュゾ、プティ・シューなどを籠いっぱいに積み上げ、通りを売り歩いていた。
中世(6)
p.XI(1)
16世紀にタイユヴァンやプラティナと同様、多くの美食家たちに愛読された『料理全書』1という本がある。これが書かれたのは1350年頃と考えられる。手稿は現存していない。ギヨーム・ティレルはこの本のことを知らなかったようだが、『ル・メナジエ・ド・パリ』の著者はこの本から随分と着想を得たらしい。この『料理全書』が初めて出版されたのは1540年で、その後60年の間に何度も再版された。ただしほぼいずれも海賊版で、題名も変えられ、内容も改訂され続けた。レシピの順番を変えるくらいにとどめようなどどいう良識のある本屋などほとんどいなかったのだ(原注1)。
p.XI(2)
1350年頃にこの本を書いた料理人たちは何という名前だったのだろう? 詩人がバラードを捧げるなら「風が運び去った」とでも謡うだろうか…。1540年に中世の伝統を守り続けていたピエール・ピドゥという謎に包まれた校訂者は一体何者だったのか? この料理人が実在したのかそうでなかったのか、いずれにしても南仏のペドゥーク2と同じ意味を持つこのピドゥという名よりもふさわしいものがあろうか?ペドゥークはある有名な宿屋の看板にも使われているが、何よりも、聖クロティルダ3、シバの女王、ブルゴーニュのベルタード4といった鵞鳥の足をした女王の伝説のもととなった。それはさておき、この本では hosblutz (ドイツ語の Hausenblase 魚の浮き袋から作ったゼラチン)のような通常はまず使われない語彙がいくつか用いられているので、この「大料理長」はフランドル5出身だったと考えられる(原注2)。
中世(5)
p.X(2)
淡水魚は水煮し、ソース・ヴェルト1を、寒い時期はマスタードを添える。うなぎは現代のマトロートの原型ともいうべき「サラジネ」にする。「うなぎを用意する。皮を剥き切り分ける。塩をして油で炒める。固くなったパンと砂糖をすり潰し、ワインとヴェルジュ2を加える。これをうなぎの入った鍋に投入して煮る。シナモン、ラヴェンダー、クローヴをすり潰してヴィネガー少々でふやかしてから鍋に入れる。しっかり蓋をして(煮る)、火から外す」。
p.X(3)
著者の嗜好はこの時代としては悪いものではなかった. この本に出てくるブラン・ドゥシェ3や鶏のコミネ4、ブラン・マンジェ5、刻んだ肥鶏肉たっぷりのイギリス風の繊細なブルーエ6などは、味付けを少し変えれば現代でも受け容れられるものだろう。その技量と、多くの宴席で勝ち得た成功に裏打ちされた自信から、著者はこの教本の最後に次のように言い切る。「立派なお屋敷に勤めたい者は誰でも、この巻物7に書かれていることを全てを頭に入れなければならない。さもなくば屋敷の主人の意に沿える仕事は出来ない」。
中世(4)
p.IX(4) = p.X(1)
この文章は古典ラテン語より後の時代のラテン語で書かれたわけだが、古典ラテン語の料理書や18世紀以前にフランス語で書かれたものと比べても、その文章が流麗なことに驚かされる。著者はおそらくパリの人だった。そのことは、本文にフランス語の単語が散見されることや、いくつものレシピがそっくりそのままタイユヴァンやピドゥの著作に見られることからもわかる。本稿ではこのラテン語の文についてはこれ以上は論じない。この筆者が書いている調理論と同様のものが、フランス語で書かれた別の小文でまとめられているからだ。このフランス語で書かれた小文の方だが、おそらく1306年に手稿本が作られた。料理に関するフランス語の文献としてもっとも古い。題名は『薄い色や濃い色の赤ワインなど全ての飲み物および諸国の様々な作法によるあらゆる食べ物の調理法についての指南書』(1) 。この小文に書かれているものは、見事なまでに簡素だ。後の時代の料理人たち程、砂糖や香辛料を使わないし、香草についても、セージ、ヒソップ、パセリくらいだ。ティベリウス帝時代の有名な美食家アピキウスと同様、肉は茹でてからローストしたり油で焼いたりした。肉をローストする場合は豚背脂を刺した。油で焼く場合は単に切り分けるだけだった。生肉はにんにくやこしょうを用いて調理し、塩漬け肉にはマスタードを使った。「去勢鶏と雌鶏はローストし、夏はワインを使ったソースで、冬はにんにく、シナモン、生姜にアーモンドミルクと羊乳を加えたソースでいただく」。青さぎ、くろ鴨、コランド、千鳥、ノンセルのような猟鳥は頭と足をつけたままローストする。孔雀と白鳥も同じように調理するが、羽を使ってソースを塗り、「いろいろな香辛料、紫うこん、芹の粉を振りかける」。火が通ったらアピキウスが書いているように、粉をぬぐい取って供する。領主には首づる、頭、手羽、腿を取り分け、「他の者には残りを」出す。
(1) 国立図書館所蔵番号 F. lat. 7131の99〜100枚目に書かれているこの小文は1865年、ドゥエ・ダルクによって出版された。