現在お買い物カゴには何も入っていません。
投稿者: Manabu GOTO
料理人は(有名)料理人の言うことにしか耳を傾けない
「シェフという人生が素晴らしい18の理由」という記事が人気らしい. 前のエントリで書いた, ひとが「知りたいと思うことは既に自身がそう望んでいる内容だから、何らかのかたちで既知の事象に過ぎない」ことをうまく利用した好例だろう. で、ちょっとしたパロディ (というよりはパスティシュ) を… 一種の冗談と理解いただきたい.
シェフは (少なくともその調理場では) 絶対正しい
シェフ (料理長) は調理場でいちばん偉い. シェフ (料理長) の言うことをきかなかったり, 意に沿わなかったりすると, 昔は鉄拳制裁を喰らったらしい. だから, たとえどんなに白いものでもシェフが「黒い」と言ったら絶対に黒である.
料理人はシェフ (あるいは他の有名料理人) の言うことにしか耳を傾けない
料理のことをいちばんわかっているのは料理人だと信じて疑わないらしい. ただし誉め言葉は別らしい.
シェフは逆ギレする
外部の人間が, たとえばメニューのフランス語のちょっとした間違いを指摘しただけでも逆ギレすることがある.
オーナーシェフは好んで原書を店に飾ることが多い
たとえまったく読んでいなくても, 言葉がわからず読めなくても. そしてその本をほんとうに読んで理解したかは本人しか知らない.
シェフは他人のレシピを読みたがらない
フレンチの料理人に絶大な支持をされている某雑誌だが, 巻末モノクロページのレシピまで目を通す料理人は滅多にいないらしい.
シェフはドタキャンされると激怒するが, 食材の納品はドタキャンする
「連絡するの忘れてた」とか… 直接やりとりしている場合はまだいいけど, 間に業者が入っているとそりゃもう…
ひとは既に知っていることしか理解できないという残念な事実
ブログのアクセス解析を見ていてちょっと面白い現象を発見、というか確認。先日、続きもののエントリをふたつ 、『ル・ヴィアンディエ』のこととギヨーム・ティレルのブランマンジェというのをアップした。結果は「ギヨーム・ティレルのブランマンジェ」のほうのアクセス数がほぼ倍。
ああ、これはタイトルの「ブランマンジェ」という語に反応した結果なんだろうとすぐにわかった。逆に言うと、『ル・ヴィアンディエ』という語に対する反応はとても少ないということ。
Google の検索ヒット数はある程度、そのキーワードに対する関心、 認知の広がり具合を反映しているようで、 上の現象と見事に呼応する。
- ル・ヴィアンディエ…約500件
- ギヨーム・ティレル…約500件
- ブランマンジェ…625,000件
3ケタも違う。 「ギヨーム・ティレルのブランマンジェ」のページにアクセスしてくれた人も、ギヨーム・ティレルについては、ひょっとしたら現代の気鋭のシェフでそんな名前のひとがいるんじゃないかと勘違いされたのかも知れない。
「ブランマンジェ」のエントリの冒頭に、前のエントリへのリンクが貼ってあるのだけど、それを踏んだ形跡はほぼ皆無。つまり「ブランマンジェ」の記事は「期待外れ」だったということになるか…
ギヨーム・ティレルではなく別名のタイユヴァンをタイトルに書けば多少は結果が違ったかも知れない。あるいはブランマンジェのエントリから『ル・ヴィアンディエ』に対する関心につなげられるような書き方もあったかも知れない。でも、無償で、しかも気まぐれに書いているブログでそこまでする必要はないだろう。僕としては、結果として読み手の興味をひかなかったことが確認できただけで充分だ。
大原則というか、とても残念な事実として、「ひとは自分が既に知っていることしか理解できない」し、「知りたいと思うことは既に自身がそう望んでいる内容だから、何らかのかたちで既知の事象に過ぎない」というのがある。まったくの未知のものはスルーするのが普通なのだ。場合によっては「見なかった」ものとして意識から追い出されてしまう。
作り手なり情報発信者がこのことをまともに受け止めて、なおかつ「ウケる」ものを提示しようとすると、最大公約数にとって既知の事象に限定することになる。結果として、受け手の知識は広がらない。ウケるものばかりやっていたら、それだけ内容は痩せていく。水は低きに流れるものだから当然だろう。そして最後は澱むだけ。僕はTVを見ないからわからないが、書籍にしろ雑誌にしろ、料理でさえそういう傾向はことのところ顕著だ。
そんなわけで、続きとしてブルゥエについて書こうと思っていたけど、あえなく挫折した (笑
棚の飾りになっているだろうあの訳書のこと
ちょっとネガティヴな内容なのでぼかして書きます。お察しください。
翻訳の場合、理解できない、意味不明というのは、もちろん読み手があまりに読解力のない場合は仕方ないかも知れませんが、たいていの場合は誤訳です。翻訳者が間違えているんです。
翻訳をしていると誤訳はつきものです。ゼロにするのは非常に難しい。簡単なところでうっかりミスをしていたりというのもよくあります。だから翻訳者としては真摯に受けとめなくちゃいけないんだけど、それでもやっぱりいちいちあげつらわれるのは辛い。自分でもそういう自覚はあるから、黙っていたいとも思います。
実際、訳書の善し悪しは読者が決めるわけですから、他の翻訳者の仕事をあれこれ言うのは感心できることじゃないです。ただ、文学とか思想書の場合、読者は複数の訳を読んでくれますからそれでいいんですが、料理書だとどうも様子が違うみたいで、古いのがあるからもういらない、的な雰囲気なんですよね。ちゃんとした翻訳だったらもちろんいいんですが、あの訳書は誤訳が非常に多いので、そうもいかないように感じています。
あの訳書で勉強しようとした料理人さんは多いと思います。でも勉強にならなかったのではないでしょうか? だって、あまりに誤訳が多いし、意味不明の箇所多数、用語の統一もされていないのですから。
かなり致命的と思われる誤訳の例を少しだけ挙げておきます。
- poêlé を「フライパン焼き」としている箇所がある (原書では「フライパンで焼く」の意味で poêlé を使っているところは1箇所もない)
- barde, lard を「ベーコン」と誤訳している箇所がある (アメリカ料理、イギリス料理ではベーコンを使うものも多いですから、それにつられて疑問にも思わないかも知れませんが、原書に書いてあるのとはまったく違う結果になりますね)
- maigre の誤訳多数 (これはすごいです。ものすごい数の意味不明箇所の原因のひとつです。例えば魚のフォン (フュメ) で作ったジュレのことを「脂肪の少ない」としちゃっています)
「箇所がある」と書いたのは、正しく訳しているケースもあるからです。不思議なことに。あるひとつの語をおなじページで片方は正しい訳なのに、片方は明らかな誤訳という共存さえ見られる。ちゃんと校正したのか訝しくさえ思えてきます。
ここで「正しい」とか「誤訳」とか言っているのは原文の「解釈」のレベルじゃないです。単純に、翻訳者に知識があるかないかの問題なんです。非常に低次元です。
とはいえ、とても古い本ですから、そっとしておいてあげたほうがいいでしょうね。批判をはじめたらキリがないですが、僕もこれ以上は書きたくないのでやめておきます。ただ、もはやあの訳書は「読まない」ことを強くお薦めしたいです。「あの訳書を持ってるから、新しいのはいらない」なんて言わずに、せっかくですから新訳でお読みください。
プロの料理人がエスコフィエを読むべき理由
ヘストン・ブルメンタールがエスコフィエ『料理の手引き』の英訳 (2011年改装版) に寄せた序文から引用
料理人のなかには, クラシックな伝統から逃れたい, エスコフィエのような権威は保守的で時代遅れだからと否定したい誘惑にかられるひともいるだろう. 大きな間違いだ. […] 僕に言わせれば, 偉大な料理というのは伝統を壊すことではなく, 伝統をあらたな方向に導くことで産みだされる. 革命を起すことよりも進化させることが大事なんだ. (Escoffier, Le Guide Culinaire, trad. H. L. Cracknell and R. J. Kaufmann, John Wiley & Sons, New York, 5th ed., 2011 (1st ed. 1979) , p.vii.)
ちょっとくだけた感じに訳してみましたが, 最初に読んだとき, いいこと言うなぁ, とすごく感心したんですよ. ヘストン・ブルメンタールだからこその説得力. ツテがないんで「引用」しかできませんが, 許可をとって全文訳したいくらい素晴しい序文です.
さて…
古いものを壊して新しい創造をする…一見, 格好いいですが, ともすれば薄っぺらいものしかできないんですよね. そりゃ, もしかするとすごいものができるかも知れないけど, 博打でしょう.
クリエイティヴを志向するというのは「表現行為」をすることにほかなりません. 言語の場合で考えてみると, 表現をするためには語彙と文法が必要です. 語彙は多ければ多いほど豊かな表現ができるようになります. 正しい文法にのっとった表現じゃないと「単語の羅列」になってしまい, 伝わりません. 料理もおなじだと思います. 正しい文法と豊かな語彙を身につければそれだけ「自由に」表現できるようになります. そして料理の文法と語彙は『料理の手引き』のような古典で学ぶほかありません.
「車輪の再発明」という言葉があります. Wikipediaの定義を引用すると「広く受け入れられ確立されている技術や解決法を知らずに(または意図的に無視して)、同様のものを再び一から作ること」です. 「意図的に無視して」というのは教育の現場で帰納的な学習をさせる場合のはなしで, 通常は愚かなこと, 非効率なこととして否定的な意味で使います. 「既存のものの存在を知らない」「既存のものの意味を誤解している」ということです.
正直なところ, 料理の場合, これがけっこう多いように感じています. 伝聞なんですが, あるシェフが何年もかかって到達したというある技術, 『料理の手引き』できっちり説明されてるんです. そのシェフは「エスコフィエなんて古くて役に立たない」みたいなことを雑誌の記事でおっしゃっていたんで, きっと読んでいないのでしょう. 読んでいればもっと早く, ずっと楽に到達できるでしょうし, 「古くて役に立たない」なんて言うはずがないですから…
いまエスコフィエを読むことの意義は, トラディショナルな料理を作れるようになるためだけじゃなくて, より自由でクリエイティヴな仕事をするための「語彙と文法」を知ることでもあるのです. だから, これから上を目指す若い「未来のシェフ」にこそ読んでほしいと思います.
エスコフィエは冷製に冷淡?
「専門料理」連載「エスコフィエを読む」2013年10月号「ガランティーヌ」の補足記事です.
『ル・ギード・キュリネール』の「冷製」FROID の章(原書pp.697-714)は,今回の「ガランティーヌ」と,次号予告に出ております「パテとテリーヌ」(pp.697-704),「サラダ」(pp.705-714)で構成されています.ガランティーヌとパテとテリーヌを合わせてわずか8ページなんです.ガランティーヌについては,今回右ページに訳出したものと,左ページ上の表だけ.これで全部です.
パテとテリーヌもそうですけど,ガランティーヌって現代でもそれなりに作られますよね.というか,冷製料理は他にもいろいろある筈なのに,これだけ? って思っちゃいますよね.いえいえ,ちゃんと素材別のページに出てるんですよ.ブフ・アラモード冷製とかベカスのサルミ冷製とか…
実際のところ,初版では「冷製」はそれなりの分量(pp.579-630)があったんです.それが第二版でほぼ現状の,ガランティーヌ,パテ,テリーヌとサラダだけ残って,それ以外は素材別のページに移動しちゃったんです.
だから目次だけ見て,「あんまり冷製料理が出てないじゃん」って判断しちゃいけないわけです.
とはいえ,ガランティーヌの素材を家禽,猟鳥に限定しちゃっているのは時代性なんでしょう.『ル・ギード・キュリネール』より少し後の『ラルース・ガストロノミーク』初版(1938年)でも「肥鶏のガランティーヌ」の詳細なルセット2つの他は「おまけ」のように「うなぎのガランティーヌ」が出ているだけです.本来なら仔牛,仔豚,うさぎ等の素材でもガランティーヌは作りますからねぇ.現代のガランティーヌの直接的な原形のもっとも古いもののひとつは17世紀マシアロの「乳呑み仔豚のガランティーヌ仕立て」ですしね.
ルヴェテュとヴォリエール
「専門料理」連載「エスコフィエを読む」2013年9月号「ロティ(2)」の補足記事です.
この数年でしょうか,キュイジニエ諸氏のブログや Facebook で「ペルドロ入荷しました!」といった感じで,羽をむしる前の猟鳥類の写真をよく見かけます.ひと昔前だったら,多くの日本人にとっては「生々し過ぎ」て目をそむけたくなるような印象かも知れません.
もう15年以上前のことですが,フランスに留学していた頃,秋になると野生のうさぎが食肉処理されていない=毛皮がついたままの状態で肉屋の店頭に大量に積み上げられているのを見て軽くショックだったのを良く覚えています.そういう売り方をするというのはフランス語の教材か何かで見て知ってはいたんですけどね.
さて,9月号108ページの網掛け部分
中世には猟鳥類のロティは羽で飾って供した
解説にありますように,衛生面で問題があるからこんなことやっちゃいけません.論外です.でも,衛生面の問題を別にしたら,そういうのを「美しい」とか「美味しそう」とする食文化がフランスにあったということは知識としては持っていた方がいいでしょう.いい悪いの問題ではありません.文化というのは相対的なものですから優劣なんかないんです.日本だって魚介の活け造りや姿盛りが好まれたりしますから似たようなものです.
ひとつめの画像は『ラルース・ガストロノミーク』初版(1938年),2つめは L’art culinaire français (1950)からです.どちらもロティじゃないです.こういう仕立てを「ヴォリエール」 en volière と言います.単に盛り付け,装飾の問題ですから,シンプルな盛り付けをモットーとする『ル・ギード・キュリネール』には出ていません ((大皿料理の多い『ル・ギード・キュリネール』の,トリュフや茹でた卵の白身,赤舌肉=ラング・エカルラートなどで装飾する盛り付けの指示は現代の感覚からすると過剰に思われるかも知れませんが,それでも当時としては画期的なまでに簡略化されたものでした.)) .しつこいようですが,衛生面のリスクがありますから,絶対にこんな仕立てをやっちゃいけません.
残念なことに適当な画像が見つからないので,文字だけで説明しなければなりませんが,中世はもっと凄かったんです.まず,中世には現代ではフランス料理の食材として認知されていない白鳥,孔雀,こうのとり等のロティがとりわけ豪華な料理として好まれたということを頭に入れておいてください.
画像は14世紀末に書かれた『ル・メナジエ・ド・パリ』に出てくる,白鳥の羽をつけたままの皮を被せた仕立て(ルヴェテュ)です.両翼の付け根の間に管を差し込んで空気を入れて膨らませ,皮が肉から離れるようにする.これを腹の側から縦に切り開く.頸と手羽は皮の側に残すようにして,皮を剥ぐ.脚は肉の側につけておく.大串を刺し,弓形になるよう小串で形を整えて ((ラルデするという解釈もある)) こんがりと焼く.焼き上がったら皮をかぶせ,頸がまっすぐになるようにする.
なかなか壮絶(?)な仕立てですよね.白鳥だから大きいです.これをどーんとテーブルに置いてプレゼンテーションするわけです.どうやら17世紀くらいまではこういう仕立てが行なわれていたようです.ただ,皮はもちろん生ですから,そんなもの被せちゃったらせっかくこんがり焼いた肉の風味は損なわれますし,衛生上大問題です.論外です.当時はそういう認識はなかったとしても少なくとも美味しいものとは考えられていなかった.単に見た目が豪華なだけの,スペクタクルみたいなものだったようです.
だからでしょうか,白鳥は必ずこの仕立てというわけではなく,『ル・メナジエ・ド・パリ』でもこのルセットの直前に,普通に羽をむしってロティールする方法が出ています(頭部は羽をむしらないままとなっていますが).で,こういう仕立てにすることもあると言って「ルヴェテュ」が出てくるわけです.
この「ルヴェテュ」の仕立てはたんに「見た目の豪華さ」が主眼ですから,16世紀にイタリアから砂糖細工の技術が伝えられ,砂糖の彫刻などが作られるようになると,宴席の「華」はそちらに移行していきます.さらに時代が下ると氷の彫刻などがこれに取って代わった,と考えてもいいでしょうね.
白鳥つながりで連想されるのはエスコフィエのペーシュ・メルバ.オリジナルは氷彫刻の白鳥に盛り付けるんですよね.現代のペーシュ・メルバは白鳥の影もかたちもないのが普通だと思いますが,そもそもは,白鳥の騎士の物語であるワーグナーのオペラ『ローエングリン』のエルザを演じたネリー・メルバに捧げたデザートです.
ロティスールとは(2)
「専門料理」連載「エスコフィエを読む」2013年8月号「ロティ(1)」の補足記事です.
さて,お待ちかね(?)のロティスールという職業についてです. フランス革命の少し前,ルイ16世の時代にギルドが廃止されるまで,食にかかわる職業は職種ごとに組合があり,法律で取扱品目が限定されていました.言ってみれば独占販売権ですから,互いに利権争いをしていました.ブゥシェ boucher は牛,羊を屠殺して肉を販売する権利がある ((viande de boucherie は直訳すると「肉屋の肉」だから食肉なら何でも含まれるような気もするかも知れませんが,実際には牛,羊の肉しか指しません.豚やジビエが含まれていないのはこういう歴史的背景があります.)) .ロティスール rôtisseur はロティした肉ならどんな種類のものも販売していいが,ソースは売ってはいけない.トレトゥールはラグーを作って販売出来る.パティシエは肉を生地で包んで焼いたもの(パテ pâté )や生地を焼いた菓子を製造販売する.シャルキュティエ charcutier は豚肉および豚肉加工品を扱うが豚を屠殺することは出来ない…といった具合です.
ロティスールの組合は1509年にブゥシェから分化したかたちで成立しました.当初はプゥライユール poullaieur と言っていました.それ以前はブゥシェがロティを扱っていたということになりますね.実際,ブゥシェの組合は中世には4家が権利を独占していたが1481年以降,魚とシャルキュトリ,ジビエ,ロティスリ,内臓の販売権を失なったということです.
ついでに,シャルキュティエの組合の成立は1475年,パティシエは1440年です. ロティスールは素材を串(ブロッシュ broche)で刺して焼いていました.オーヴンは使いませんでした.というか使えなかったんです.肉を焼くのにオーヴンを使うのはパティシエだったんです.
画像は17世紀の戯画.ロティスールの使う道具(=串)と扱っている素材がよく分かりますね.
ところで,ロティスールとかパティシエといった職業名を名乗るのは親方だけです.その下で働く職人,徒弟はそういった職業名を名乗らなかった(許されなかった)ようです.また,利権がらみですから世襲が基本で,跡取りがいなければ娘婿(通常は徒弟の中で優秀な者)が継ぐといったケースが殆どだったようです.ロティスールにしろパティシエにしろ利権争いをするような組合組織があったわけですが,キュイジニエという言葉(古くはクー queue とかエキュイエ écuyer という言葉も用いられました)は「料理人」「料理をする人」という意味の一般的な名称でしたから,利権がらみの組合なんてありませんでしたし,料理人は誰でもキュイジニエと呼ばれていたわけです.
というわけで,もう一度ブリヤ・サヴァランの言葉を見てみましょう.
On devient cuisinier, mais on naît rôtisseur.
「(キュイジニエという職業は制限がないから)誰でもキュイジニエにはなれるけど,ロティスールは(組合やらいろいろ制限があって)誰にでもなれるものじゃない」というようにも解釈できなくはないわけです. ところがブリヤ・サヴァランのこの言葉,元ネタらしきものがあるんです.辻静雄は
これは分からん言葉ですね.四番目,十四番目と同じような何かのパロディというような気がしますが.岩波書店の『ギリシャ・ラテン引用語事典』というのをパラパラとめくっていましたら「高貴なる人は生まれる,作られず」なんてのが出ていましたから,こんなところが案外出所かもしれないと思いますね.(「ブリア-サヴァラン『美味礼讃』を読む」)
と書いています.そう,パロディなんです.前回のエントリで述べましたように『味覚の生理学』というのは基本的には「おもしろ読み物」なんです.だから遊び心があると考えるのが自然です. で,元ネタらしきもの.ローマ時代の政治家,文筆家キケロの
Nascuntur poetae fiunt oratores
フランス語だと
On naît poète on devient orateur
順は逆ですがよく似ていますよね.「人は生まれながらにして詩人だが,雄弁家には努力しないとなれない」くらいの意味です.これを踏まえてブリヤ・サヴァランの言葉を解釈すると… いや,パロディですし,そもそもアフォリズムという短文形式はひとつの限定された解釈をするのが非常に難しいというか,いろんな解釈が可能ですから,とりあえずこのくらいにしておきましょうか.
いずれにしても『ル・ギード・キュリネール』で引用されている文脈では「誰でもキュイジニエになることは出来るが,ロティールは生まれつきの才能次第だ」という意味です.そう解釈してやらないと『ル・ギード・キュリネール』の方を読み間違えることになってしまうのでご注意を.
ロティスールとは(1)
「専門料理」連載「エスコフィエを読む」2013年8月号「ロティ(1)」の補足記事です.
ブリヤ・サヴァランの有名なアフォリズム
誰でもキュイジニエになることは出来るが,ロティールは生まれつきの才能次第だ
もうちょっと分かりやすく書き直すと
料理ってのは誰でもやれば出来るようになるけど,ロースト(ロティール)だけは才能がモノを言う
って感じですが,こんなこと言われたらそりゃ気になりますよね.エスコフィエも相当に気になっていたようで,このアフォリズムを引用していますが,驚くべきことに初版と第2版以降ではニュアンスが随分と違うんです.そこで今回の連載記事では「ロティ」の冒頭部分を初版と最終版の両方訳出しておきました.
初版の方は,ロティールについてはどんなに頑張っても素養がなければどうにもならない,という立場です.人によってはには絶望的(?)な宣告かも知れません.一方で,第2版以降は「ほんのわずかの素養さえあれば」努力次第でどうにかなる,と言っています.
どうして『ル・ギード・キュリネール』の記述が180度ニュアンスを変えたのかはわかりません.が,ブリヤ・サヴァラン『味覚の生理学』という本は本質的には「面白読み物」であって,科学的な分析の本でもないし,料理の聖典でもないんです.このあたりがどうも誤解されやすいようで,ウィキペディアには
『美味礼讃』は直訳のタイトルに<味覚の生理学>とあるように、学問書を意図している
などと書いてありますが,実際にじっくり読んでみると全然学問的じゃないんですよ.部分的に学問的であるというポーズはとっていますけどね.
そもそもこの『味覚の生理学』Physiologie du goût, ou méditations de gastronomie transcendante は1826年,著者の最晩年に匿名で出版されたんです.ポイントは匿名だったということ.ブリヤ・サヴァランという人は法律家で,専門の法律関係の著作はちゃんと本名で出していました.つまり『味覚の生理学』は本名で出せるような本じゃない,ということだったんです(少なくともブリヤ・サヴァラン自身はそう考えたわけです).
実際,タイトルに「生理学」と謳ってはいますけど,内容は文字通りの生理学とは何の関係もない.甘味,塩味,苦味…といった味を舌や口腔で関知する生理メカニズムなんかまったくお構いなしです.食に関連する蘊蓄,逸話,独自理論の展開…がこの本の中心です.まぁ,エッセーみたいなものです.
出版直後からそこそこヒットしたみたいで1834年には第4版が出ています,さて,この本を気に入ったバルザックという小説家が1829年に『結婚の生理学』Physiologie du mariage ou méditations de philosophie éclectique, sur le bonheur et le malheur conjugal, publiées par un jeune célibataire という本を出します.フランス語の題名がそっくりですよね.ここまで似ているとオマージュなんだかパロディなんだかわからなくなりそうですが,この本がまたそれなりにヒットしまして,柳の下のドジョウよろしく,その後同じようなタイトルの本がぞろぞろ出版されます.「床屋の生理学」「お妾さんの生理学」「歌の生理学」「パリの全劇場のロビーの生理学」「ブゥローニュの森の生理学」… まぁ現代では文化史研究でもしないかぎりどうでもいいと言われかねないような本ばっかりなんですが,「生理学モノ」という1ジャンルを築いたと言ってもいいわけです.
『味覚の生理学』はそういうわけで,書いてあることを何でも額面通りに鵜呑みにしちゃうと,とんでもない誤解をするような本なんです.
さて,問題の「誰でもキュイジニエになることは出来るが,ロティールは生まれつきの才能次第だ」ですが,原文は
On devient cuisinier, mais on naît rôtisseur.
アフォリズムは日本語で「警句」とも言いますが,「思考や観察の結果を簡潔な形で,皮肉に,しんらつに,諧謔的に述べたもの」です.短かい表現で説明がないわけですから,いろんな解釈が出来る場合も多い.で,混乱しちゃったりするんですよね.このアフォリズムの一般的な解釈は上で書いたように「誰でもキュイジニエになることは出来るが,ロティールは生まれつきの才能次第だ」となります.
でも,他の解釈も可能なんですよね.色々考えさせられる.そういう仕掛けになってるんです.そのためには「ロティスール」rôtisseur とは何なのかということを知る必要があります.
というわけでこのエントリ,次回に続きます.
ソテとフリカセ
「専門料理」連載「エスコフィエを読む」2013年6月号「ソテ」の補足記事です.
『ル・ギード・キュリネール』でのソテの定義を確認しておきましょう.
- 技法としてのソテ(動作)… ソテ鍋に油脂を敷いて,適当な大きさに切った素材を炒めること.
- 料理名としてのソテ(仕立て)… (1) ソテ鍋に油脂を敷いて,適当な大きさに切った素材を炒め,デグラセしてソースを作る.(2) 炒めた素材を鍋に戻し,煮込む場合もある(=ソテ・ミクスト).
料理名としてのソテ(1)の代表は「トゥルヌド ロッシーニ」あたりでしょうね.連載の第2回で取り上げましたし,あんまりにもよく知られた料理だからここでは何も申しません.
で,今回訳出した「若鶏のソテ マレンゴ」…「若鶏のマレンゴ風」のように訳されることもありますが,普通に考えて煮込みですよね.でもソテと呼んでいる.これが上の(2) ソテ・ミクストの代表例ということになります.
『ル・ギード・キュリネール』では,デグラセしてソースを作ることが,仕立てとしてのソテのポイントなんですが,技法としてのソテの意味から言っても,マレンゴのようなソテ・ミクストをソテを呼ぶのはやっぱり違和感があるわけです.翻訳では上手くニュアンスが出ませんでしたけど,グーラーシュ,カルボナード(フランドル風),ナヴァラン,シヴェ等々もソテ・ミクストの定義に当て嵌まっちゃう.でも,実際にはソテとは認識されていない.あえて言うならラグーですよね.だから,「実際のところ『ラグー』と呼ぶのがふさわしい」(p. 130) と書いてあるわけです.
さて,この「ソテ」という語とちょっと似た経緯で,完全に意味が変化してしまった語があります.フリカセ fricasser (動詞),fricassée (名詞)です.
フリカセというとこんにちの一般的な理解では「白いソースの煮込み」ですね.『ル・ギード・キュリネール』での定義については「仔牛のブランケート」の回で訳出しました.
ところが,中世〜17世紀あたりまでは,フリカセというのは「鍋に油脂を敷いて素材を焼くこと」だったんです.技法(動作)としてのソテと同じと思って構いません.煮るという意味はまったくありませんでした.そもそも fricasser という動詞自体,frire (油脂で揚げる)+casser (肉を小さくカットする)という成り立ちです.
例えば17世紀ラ・ヴァレーヌ『フランス料理の本』Le Cuisinier François ((『フランスの料理人』と訳されていることも多いですが,cuisinier には「料理をする人」だけではなく,「料理書」の意味もあります.なお,François はフランソワではありません.français の昔の綴りです.))にこの動詞はたくさん出てきます.これらを「白いソースで煮込む」という意味でとってしまうと,まったく理解不能,調理不可能な文章にしか見えません.この本ではフリカセは単に「鍋に油脂を敷いて素材を焼くこと」=ソテの意味で捉えてやらなくてはいけません.
が,フリカセが「煮込み」の意味に転じる兆しもまたこの本に見られるんです.このあたりは実に面白いことです.ラ・ヴァレーヌの「若鶏のフリカセ」は,切り分けた鶏をブイヨンで煮て火を通し,水気を切ってからフリカセする(脂を敷いた鍋で表面をこんがり焼く).たっぷりの香草で味つけし,ほぐした卵黄でソースにとろみをつける,というものです.このルセットにはちょっと欠落があって,ソースに用いる液体が何かは書いてないんです.が,前後はラグーばかり並んでいますので,その流れでブイヨンを注ぐと考えていい筈です.ラグーのルセットも何の液体を加えるかは書いてないことが多いんで.
というわけで,ラ・ヴァレーヌでは,フリカセ=炒めること,なんですが,「若鶏のフリカセ」の場合,料理としてはラグーに非常に近い.最初にブイヨンで茹でる時点でほぼ火を通しておくと書いてあるんで,文字通り煮込むわけじゃなさそうですが,仕立てとしては「煮込み」あるいはラグーと呼んでもあながち間違いじゃない.
マレンゴ等のソテ・ミクストも同じような流れで「ソテ」→「ラグー」的な言葉の意味の変化のプロセスがあったのでしょうね.ただ,現代ではむしろマレンゴのような仕立てをソテと呼ぶことに違和感を覚えるようになったわけですから,『ル・ギード・キュリネール』でソテ・ミクストをラグーと呼ぶべきと書いてあるのはまさしく慧眼であったということでしょう.
食べ物の格変化
ちょいと豆知識でも… デクリネゾン déclinaison,ある食材を異なる複数の仕立てで供するアプローチですね.日仏料理協会編『新フランス料理用語辞典』(白水社)では
同じ材料を異なった調理法でつくったものを盛り合わせた料理用表現
と定義されています.こんなふうにすっかり料理用語として定着した感がありますが,もともとはラテン語文法などの「格変化」のことなんです.ラテン語の名詞は通常,主格,対格,属格,与格,奪格の5種類(厳密には7種)の形態を持ち,語尾変化で表わされます.rosa / rosae / rosae / rosam/ rosa みたいな感じです.こういうふうに名詞が格変化することをフランス語では déclinaison と呼んでいるわけです.
現代フランス語には格変化はありませんが,ドイツ語はフツーに格変化しますし,英語もほんの少しだけ格変化の名残りがあります.主格,所有格,目的格…って,実際には代名詞にしか残っていませんが….
ところで,フランス語を学びはじめると「動詞の活用」で苦労させられたりします.j’ai / tu as / il a / nous avons / vous avez / ils ont とか(笑.動詞の活用はコンジュゲゾン conjugaison と言います.デクリネゾンとは違います.というか,現代フランス語には格変化はない = デクリネゾンはないわけです.
コンジュゲゾンもデクリネゾンも語形変化という点では同じなんですが,料理用語としてはデクリネゾンですね.これって結構,意味深いことだと思います.食材を言葉で表現するには名詞を使うわけです.仕立てによって食材が変化する.それに対応する名詞も変化する…ってイメージですね.だからコンジュゲゾンじゃなくてデクリネゾン… というわけで,デクリネゾンという用語はそれ自体が,ちょっとばかり知的な感じもしないではないですね.
2014年9月20日追記…「デクリネゾン再び」も併せてお読みください。